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  • Posted on
    2010.11.24
  • posted by kenshin.

二次創作の氾濫







東京国際展示場で毎年開催される「コミックマーケット」は、単に東京で行われているだけのローカルイベントかと思われていたが、今や延べ50万人もの参加者を集める巨大な全国区型の祭典へと進化した。参加サークルも約35000を数えると言われているが、彼らがそこに出展する作品には二次創作物、つまりオリジナルのマンガやアニメから物語設定や登場人物を借りて書き直したものが多く含まれる。その為「最近の若者は、ゼロからオリジナルを作る創造力に欠ける」との批判がなされることも少なくない。

しかし、例えば映画興行の世界でも最近はやたらと続編やリメイクが増えている。「新世紀 エヴァンゲリオン」の様に、最初の制作から10年以上経って改めてオリジナルの制作者自らがリメイク版を作ることもある。音楽の場合でも、他のアーティストの楽曲を〝別解釈〟で歌い直した作品群が数多く発表され、それなりのセールスを上げている。もっと遡れば、著名な画家が創作した絵を模写することが1つのトレンドだった時代さえある。この様に二次創作は、今や同人誌を作る若い世代に限らず、広く創作方法の主流となりつつあるようだ。

まず作品が受容されるには、送り手と受け手の間で「物語」設定が共有されている必要がある。と言っても、ゼロから物語の全てを説明的に描いていては面倒だし、冗長になりかねない。そこで、既公開作品を引用して二次創作したり、続編を作る。そうすることで、オリジナル作品の設定を共通認識として踏まえられるので説明が節約でき、その分斬新な解釈に注力できる。つまり、そこにはある種の「経済原理」が働いているのだ。

実際、前作に依存せずとも共通の認識を前提にできるのであれば、最初からオリジナルを作ることも容易いはずだ。やはり続編ばかりのハリウッド映画でも、9.11以降の戦争関連映画で多くのオリジナル作品が作られたのは、泥沼化したイスラム原理主義との戦闘状況が、アメリカ社会で広く共通の認識としてあり、それが参照可能だったからだろうと思われる。要するに、現実を参照できるか、過去の作品を参照するかしかないのだ。

続編や二次創作作品が多くなっているのは、ライフスタイルや価値観の多様化により、多くの人々をまるごと巻き込むような経験が少なくなり、共通の参照先を人々が失いつつあるからだとも言えそうだ。こうした二次創作の氾濫は、私たちの感性を少しずつ変えてゆくのではないか...?続編や別解釈による二次創作作品が作られるのが当然の様になってくると、私たち「受け手」はそれらに向けて〝開かれた〟ものとしてオリジナル作品を受け止めるようになる。これは作品の「輪郭」を崩壊させることにつながっていく。例えば、村上春樹氏の『1Q84』が上下2巻で刊行された昨年、続編の有無が話題になった。少し前ならそんな議論自体があり得なかったはずだ。何故なら、完結の手応えの無い作品は、失敗作とみなされていたからだ。

輪郭が崩れつつあるのは作品だけではない。コミックマーケットにこれほど多くの若者が集まるのなら、それが「ビートルズ」に熱狂した世代の体験に代わる新しい世代的共通体験になっても良さそうなものだ。しかし、二次創作の祭典への参加者は、参照先ごとに分断され、細分化されている。共通体験が減ったから二次創作が増えただけでなく、二次創作によって張り巡らされた参照のネットワークが〝共通体験を形成する求心力を弱めている〟という皮肉な因果関係をも形成してしまった。こうした経験の分散傾向は、それぞれに検索可能な大量の情報に包囲されて人々が暮らす高度情報化社会の行く末を占う1つの姿なのかもしれない。





[reference]


「復眼鏡(産經新聞)」/ 武田 徹



text by wk

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