1983年、今村昌平監督によって映画化された深沢七郎原作の「楢山節考」は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した。この作品は、姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)伝説をベースに、信州の貧しい寒村に住む人々を描いた秀作である。
劇中では、七十歳を迎える者に義務付けられた「楢山参り」という名の口減らしの事が語られているが、山深い寒村という環境からくるさまざまな困難に適応するかのように作られたそれらの掟(おきて)に従い、強制的に訪れる『死』に対して、ただ淡々とそれを受け入れ、死と向き合う老婦人の心理や、それを取巻く家族や村人達の姿が、現実以上のリアルさで描かれている。
そこで語られる「死」とは、一家の存続や村というコミュニティーの存続に欠かせないルールであり、一般的な人間の死とは一線を画している。子孫が生き延びる為には必要な犠牲である、とでも言わんばかりに...。しかし現代の楢山節考は、年長者の口減らしでは無く、年金詐欺目的の生存偽装であるらしいが、そこに横たわる生活の困窮や格差を産み出す社会構造の問題などを無視して、一概に語ることはできない。
この夏、ネグレクト(育児放棄)により、大阪の繁華街で幼い姉弟の命が失われた事件は、未だ記憶に新しい。それ以外でも、連日「虐待」の2文字をネットやメディアで目にしない日は無い。また、高齢者の所在不明問題、頻発する死体遺棄事件、毎年の様に3万人を超える自殺者などなど、人間の尊厳や人の死を取巻く環境や価値観に、何らかの変化が起き始めているのであろうか。
都心を中心に、10年前くらいから「直葬(ちょくそう)」と呼ばれる単純な葬法が増え始めた。直葬とは、一般的な通夜・葬儀・告別式といったイベント的儀礼を取払い、死亡後、斎場や遺体保管施設から直接火葬場で荼毘に付すことを言う。実はこの直葬、特に新しい葬法では無く、昔から存在していた。例えば、身寄りのない人の葬儀や生活困窮者の葬儀、孤独死の葬儀などがそれである。しかし、今急速にこの直葬が拡大しているのは、新しい葬法の一つであると社会から再認識され、多くの消費者に選択されるようになったことが大きいと考えられる。
また昨秋、大手スーパーが「安心の明瞭会計」を謳い葬儀事業に進出。寄付金であるお布施や戒名料などを定額料金のようにホームページで表示した。これに対し「仏教本来の精神を踏みにじった」「僧侶の〝ギャラ〟の様に表示され、寺が戒名を売買している印象を与えている」として、伝統仏教教団でつくる全日本仏教会が反発。イオン側が歩み寄るかたちでホームページ上の金額を削除するといった顛末に発展し、一時期話題となった。しかし、全日本仏教界には「僧侶はきれいごとを言い、実際には戒名を売りつけている」という怒りの声も多数寄せられているという。実際には「お布施は僧侶の言い値」という側面は拭いきれない事実であり、消費者からの「お布施の目安を知りたい」という声は、依然多いのだと言う。
それは、かつての総中産階級という図式が崩れ、生活困窮者の増加が高齢者世帯にも広がっていることが理由の1つとして挙げられる。また、高齢者夫婦世帯の場合、遺される方の残された人生に、どれだけの費用がかかるか見通せないことから、葬儀費用などにお金をかけられない人が確実に増えてきている、とも予測できる。
次に、超高齢者の死が増加したことで、〝高齢者が亡くなる〟イコール〝面倒が済んだ〟という意識をもつ身内が増えた。そこで、死者に愛着が無く、単に死体処理としての葬儀を行う人が増えてきているのではないか?と考えられている。また、通夜・葬儀という儀礼に、意味や価値を覚えない人が増え、専ら死者との「お別れ」に重きを置く人達が増えてきている。
家族が解体し、遺族が死者に愛着を感じないため「手っ取り早く済ませたい」と考える人たちが増えていることは何とも淋しい限りであるが、何らかの理由から家族関係が冷え切っていて、葬儀をきちんと行いたくない、また、葬式費用を無駄と考える人が増えているのかも知れない。
そもそも日本政府も、75歳以上の人を「後期高齢者」と名付け、まずは医療の機会を奪い「在宅医療を進める」として病院から追放しようとしている。介護保険があるとはいえ、病院に代わる受け皿を作らないままこのプロジェクトは進行中であり、在宅介護の体制が整っていない場合、要介護の後期高齢者は病院を数ヶ月単位でたらいまわしにされた挙句、介護施設からもたらいまわしにされ、更には我が子からもたらいまわしにされるという「超高齢者難民化現象」へと陥っていく。この状況は、今後拡大の一途を辿っていくと言われている。
「長生きしないで、できるだけ早く死ね、と言われているようだ」と憤慨している高齢者は少なくない。ある老人施設では、入居者の身内(子供)に死亡の連絡を入れたところ「面倒だから施設で葬儀をやってほしい」と返答され、言葉を失ったそうだ。この様な「死者を惜別し、送る」「弔う」という意識を持たない家族が増えることが、今後危惧される。
一口に「直葬」といっても、それを行う家族の想いはさまざま。直葬ばかりが増えるのは、あまり健全なことではないと思うが、遺された者が家族の死に向き合い、惜別の想いをもって弔い、葬りの作業をすることは、いのちの尊厳について身をもって体験する機会となる。
近年、三世代世帯が大幅に減少し、仮に三世代世帯であっても家で看取ることは殆どなくなってしまった。若い世代が祖父母という肉親の死を体験する機会がどんどん減ってきているのだ。誰人も死から逃れることはできない。しかし、死は知識でわかって終わりではなく、身近な人を喪うという体験を通じてのみ死というものがわかり、いのちの有限さや儚さ、尊さも実感できるのではないだろうか。
そもそも「死」というのは抽象的なものではない。父親、友人、恋人...など具体的な名前と固有の人生を生きた、個性ある個人に起こることだ。
映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞し話題を呼んだが、あそこにあるのは具体的な個人の死である。この世を間もなく去るであろうと覚悟した人、突然の事故等で近親者を奪われた人、長寿の末だが同時に長く病んだままでの死、さまざまな死がそこには存在している。その死者と、死者の周辺にいた人たちによって初めて葬儀は固有のものとなる。
葬儀は死者を想って行われるものであるし、死者の存在が自分にとってどんなものであり、死者の不在は何をもたらしたかを感じながら行われることだろう。
連綿と続く「命」は、祖父母によって親へと受け継がれた。また親の存在無しに自分の存在もない。そんな長遠な時の流れや受け継いだ命への感謝を忘れない、ということが本来の葬儀の意味なのではないだろうか?
text by wk