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  • Posted on
    2010.05.04
  • posted by kenshin.

ANDRZEJ WAJDA  カテインの森から学ぶ





ロシア西部スモレンスクで4月10日午前11時(日本時間同日午後4時)ごろ、ワルシャワからスモレンスクに向かっていたポーランド政府専用機(ツポレフ154)が墜落した。同機にはレフ・カチンスキ大統領(60)とマリア夫人ら97人が乗っていたが、全員死亡した。 同機は着陸直前にスモレンスクの空港付近の森林地帯に墜落、炎上した。
 カチンスキ大統領ら一行は同日、スモレンスク州で予定されていた、第二次大戦中にポーランド軍人ら2万人以上が当時のソ連秘密警察によって虐殺された「カチンの森事件」70年の追悼式典に出席するため現地に向かっていた。事故機にはポーランドの中央銀行総裁や外務次官ら政府要人が搭乗していた。

 text by 毎日jp




昨今、世界中にこの大惨事が駆け巡ると同時に、あまりにもタイムリーな出来事で無情なものに2007年に発表された、ポーランドが生んだ映画監督  巨匠 アンジェイ ワイダの『カテインの森』が脳裏に浮かんだ。
世界中で今なお残る第2次世界大戦の爪痕はこの映画の中に監督の悲願が深く強く刻み込まれている。
現状ヨーロッパは陸続きに国々が連なっている。政治経済、軍事的に強い国もあれば弱い国もある。日本人には仲々理解し難い政治信条だが、かつて強国には、隙あらば隣国の制圧を虎視眈々と狙っていた歴史が存在していた。
 特にポーランドはドイツとソ連に囲まれるように隣接していたので、第2次世界大戦勃発から戦後に至るまでナチスドイツの侵略とソ連共産主義の圧制により、人々は過酷な状況に置かれ、国家の存在そのものが脅かされていた。
 その真っ只中にいたのが若き日のヨハネ・パウロ2世であり、アンジェイ・ワイダだった。
1945年の春、ナチスの占領下から解放された直後のポーランドは、解放の喜び束の間に今度はスターリンから侵略を受けることとなった。ナチスを追い出したのがソビエト軍だったのだ!
 若者達の間では、侵略者に対する強烈な反発からレジスタンスが醸成され、時を同じくしてロンドンにあった亡命政府は、ポーランド国内軍に旧体制を取り戻すべく、反共産主義の戦いを指示したのであった。
 しかし政府内には共産主義を支持するグループも存在し、ポーランドは複雑な国家体制になっていたのである。




ポーランドはポーレ(原っぱ)と呼ばれるように平地であり、その侵略過程で「カテインの森」に代表される悲劇が起こった。
「カテインの森」とは、ソ連軍が侵入した、1939年に捕らえらた将校たち約8000人がロシアのスモレンスク西20キロぐらいに位置する過程んで1940年に多くのポ-ランド人が処刑された虐殺事件である。
その後も、抵抗したり、あるいは抵抗しなくても法律家や牧師大学教授といったインテリポーランド人たちが次々と逮捕され、カテイン以外でも処刑されていった。その数は総数で、約2万2千人とも言われている。
対戦中のナチ ドイツがカテインの森の大量虐殺を1943年4月に発見し、それをうまく反ソ宣伝に利用したが、ソ連は直ちに否定。そして、ソ連がスモレンスク一帯を取り戻したときに、医学アカデミー総裁を団長とする調査団がドイツ兵の仕業と発表した。
ポーランド人だけではなく、英国チャールズですら、国益に右顧左眄した。 戦争が終わると、ソ連傘下に組み込まれたポーランドでは、大量虐殺はドイツの仕業と正当ずけられた。
ソ連は否定し続けたが、1990年になってようやく、当時のソ連大統領ゴルバチョフが認め、93年にロシア大統領エリツインがカテインの碑に頭を垂れた。 ただ、これで終わった訳ではない。
ソ連はスパイとか反ソ行動で殺したとし、ポーランドは罪なき人々の大量虐殺だと、未発掘の遺体探しも含めて、 今も検証が行われている。
「カテインの責任がソ連という明確な証拠はない。ワイダは真実から我々を遠ざけている」と指摘するロシア新聞の映画評もあるのが現実である。
そんな酷評にも恐れず、現在83歳にもなるアンジェイ ワイダ監督が投じたものは決して単なる歴史を伝えるだけでなく、全世界に向けて決して忘れては行けないものを映画を通じて懸命に訴えかけているように感じる。

現代に生きる我々にとって遥か遠い昔の出来事である様に思えるが、今なお世界中のどこかで紛争が起こっていることもまぎれもない真実。。。虚無な欲望と繰り返される人間の愚かさが進化と退化を行き来している。

21世紀、人々は何を消し去り何を残そうとしているのであろうか?
そしてどこに向かうのであろうか?


reference  青山学院大学教授 寺谷ひろみ 著



text by H


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