近年ゴミ問題は「エンド・オブ・パイプアプローチ(排出されたゴミを片付けて処分する伝統的なゴミ処理方法)」から「トータルアプローチ(生産者と消費者が共に責任を担い、皆でゴミを出さない努力を重ねる資源循環型)」へと変化してきています。これは、リサイクルを前提として製品を設計し、その処分にまで責任を持つという考え方が企業などへ浸透してきた証拠でもあり、将来的に日本が目指す循環型社会が、発生したごみを循環資源として活用する〝ゴミゼロ社会〟を志向していることと、決して無関係ではないということの証明でもあります。
また、国内ではリサイクルの集団回収が活発に行われ、年間300万トン以上の新聞や雑誌類を回収。容器包装リサイクル法で定められたガラス瓶や金属缶、ペットボトルの回収にも、多くの自治体が取組んでいるのは周知の通りで、こうした努力によって廃棄物の排出量は低く抑えられ、1990年に都市ゴミの排出量は5000万トンを超えたにも関わらず、その後は安定した推移を見せています。私たち消費者サイドも、なるべくゴミを出さないようリサイクルをすすめたり、エコバッグやマイ箸を持ち歩くなど、最近ではゴミを減らす取組が随分と浸透してきました。特筆すべきは「BOOK OFF」や「HARD OFF」などの古本や中古品リサイクル産業の成功により、アジア諸国からも注目を集め、今や日本は「循環型社会の先進国」という評価を受けている事実です。
そんなアジア諸国の中にあって、四ノ宮 浩監督作品『忘れられた子供たち ~ スカベンジャー ~(1995年)』、『BASURA バスーラ(2009年)』の舞台にもなった「スモーキーマウンテン」という東洋最大と称されるスラム街をご存知でしょうか。フィリピン・マニラ市の北に広がる約30ヘクタールほどの地域を、地元ではそう呼んでいますが、元々は小さな漁村だったそうです。1954年頃からゴミの投棄場所となり、以来長年に渡りマニラ市街から運び込まれ続けたゴミが積もりに積もり、とうとう総面積の3分の2(約21ヘクタール)、高さ30メートルにも及ぶゴミの山が生まれました。そのゴミが自然発火して、常に煙を上げていることから、いつのまにかそう呼ばれる様になり、現在国内で発行されているどの地図にも決して名前が載ることはありません。
総人口のうちの僅か2割程度の裕福な人々が、国の富の8割を独占しているフィリピンでは、土地を持たない地方の農村出身者などが一家大挙して僅かな可能性に賭け、大都市マニラを目指します。しかし、いくら頭が良くても、いい大学を卒業をしていても「コネ」のない人々が自分の夢を叶える可能性は、ほとんどゼロに近い国フィリピンでは、希望する仕事にありつけるはずも無く、青年男女の2人に1人が絶えず失業状状態にあるといわれています。そんな状況の中、故郷を後にし仕事も無く住む場所すらない人々はどうなるのか?彼らの多くは「スクワッター(不法占拠者)」となり、ここに捨てられたゴミからまだリサイクルできるものを探し出し、それを換金して生活の糧を得るのです。このような仕事をして暮らす人たちのことを「Scavenger(ゴミを拾う人々)」と呼ぶそうですが、見方を変えればここの人達にとっては、この「ゴミ」は決してただのゴミではありません。まさに、明日へと命をつなぐ生きる為の資源なのです。
しかしフィリピン政府は、このスモーキーマウンテンを国家の恥部と認識しており、ラモス政権はこの地域の再開発政策を積極的に推し進めました。まずゴミの廃棄禁止を命じ、次いでスラム街からスクワッター(約3000世帯、21000人)を一掃すべく、住民と激しい闘争を幾度も繰り返しました。混迷を極めた一連の騒動は、最終的に強制退去命令を出したことで収束に向かいます。その後スモーキーマウンテンを追われた住民たちは、政府の用意した仮設住宅に移り住みましたが、それでも約6割の人々は、今もスモーキーマウンテンの向かいに出来た〝新しいゴミ捨て場〟でゴミを拾っては転売する、という生活を続けているのです。
『eco』、そんな親しみやすいキャッチーな言葉と共に、私たちの生活の一部となりつつあるリサイクルやリデュース(発生抑制)という意識は、元来日本人の伝統的精神でもある「もったいない」という言葉に代表される「物を大切にする」という精神に他なりません。ところが大量消費社会の中で、この精神もいつか忘れ去られ、ゴミの大量発生を引き起こしてきたのです。上記のフィリピンの例でも解るとおり、ゴミとは元々「限りある資源」のことです。一部の個人や国家の都合で、ゴミとして扱われ、また別の人々にとっては大切な資源として扱われたモノたちの呼名に過ぎません。情報家電やハイテク機器に欠かせないレアメタルの争奪戦なども同じ次元の問題ですが、結局は物や資源を大切にし、環境を守る文化が人々の生活に根付いているかどうかではないでしょうか。
例えば質素な生活を好み、物質に頼らない人々であれば、「物による豊かさ」でなく「心による豊かさ」を重視することでしょう。現代の私たちに必要な考え方も、この「心の豊かさ」を生活の尺度としていくことなのではないでしょうか。特に循環型社会を一層進める上で、今までの価値観を改め、幸福な人生にとって本当に必要なモノとは何なのか?と私たち市民の1人1人が自分の頭で考える。そういう意味において「ゴミゼロ」社会とは、物質的幸福に依存しない、精神的幸福を目指しつつ新しい価値観を具現化していく次世代モデル、ということなのかも知れません。
しかし、現実的にここで重要なのは「ゴミゼロ」という考え方が、ゴミを出さないということではなく、ゴミ自体は出ていても、それを分けて循環資源として活用し尽くすことを目的としている点です。
20世紀は「もっともっと」という合言葉と共に、資源の大量消費を促す時代でしたが、21世紀は「ほどほど」で行きたいものです。その「ほどほど」のバランスを取ることが、個人のレベルでも求められる時代となりました。利便性を追求した文明社会の住人であれば、当然の義務としてその責任を負う覚悟が必要なのです。それは、コスモポリタン(地球市民)として生きていくことを運命付けられた、私たち現代人の使命の様なものなのかもしれません。
[Reference]
循環型社会への処方箋 ~資源循環と廃棄物マネジメント~ / 鳥取環境大学・田中勝著
text by wk