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  • Posted on
    2009.05.28
  • posted by kenshin.

家族





今の日本では、概ね一つの固定化された〝理想の家族像〟を追い求めてしまう傾向にある様だ。
映画や小説の中の「美しい家族像」を目の当たりにして、無意識のうちに「そうでなければならない」と感じてしまい「妻とは、夫とはこうあるべき!」という概念に苛まれ、理想と現実のギャップに苦しんでしまう。
しかし、映画に出てくる様な理想的家族像をそのまま模倣することは、現代社会にはそぐわない生き方だ、とは言えまいか?
1960年代以降、都会を中心に核家族化が進み、今は家庭内でも〝個〟を尊重する時代に入っている。そんな現代を生きているのに、昔の美しい家族像を追求すること自体、自分で自分の首を絞めている様なものではないだろうか?

現代において、家族を持つことへの不安は、誰もが抱えている問題の一つである。
「自由(時間やお金も含め)を失いたくない」「たとえ結婚できたとしても、はたして自分は〝良い妻・良い母親(良き夫・良き父親)〟になれるのか?」「そもそも幸福へと繋がる道程には、結婚という選択肢以外ないのか?」
国際的な問題でもある出生率の低迷が叫ばれる昨今、動機の見えない無差別殺人事件や、子供による親の殺害事件、親による子への虐待など〝家庭の崩壊〟や〝血縁のしがらみ〟から起きた悲しい出来事が後を絶たない。
そんな凄惨な事件や様々な社会的状況が重なり合い、残念ながら「家族」という言葉からは、あまり幸福なイメージを感じられなくなってきている。
ある若者は言う「良い家族を持つことやそれを維持すること自体が、自分の人生の重荷になるくらいなら、初めから家族など持たない方が楽」。
では、どんな家庭を持てば幸せになれるのか?家族というものをどう捉えるべきなのか?

キーワードは『多様化』。
つまり、個々の家庭でそれぞれの家族らしい理想像を創りあげていけば良いのではないか?
そもそも『理想の家族モデル』など初めから存在しない、と考えた方が良い。
そう認識することで、行過ぎた躾(しつ)けの末に、無意識に虐待していまう親や、ついつい過保護になってしまう親が、多少は減るのではないだろうか?

しかし日本には〝妊娠したら結婚すべきだ〟という一つの固定概念が定着している。
結婚というシステムに縛られずに家族という関係性を捉える欧米に比べると、日本の社会は、結婚という「型」に対する固執した概念が、未だ根強く残っている。
例えばスウェーデン、出生児に占める婚外子率が世界一の国だ(次いでフランス、アメリカと続く)。
結婚はせず、パートナー同士という状態で出産しているからだ。これらに比べて、日本の婚外子率は非常に低い。
それは、日本に〝できちゃった婚〟が多いことと決して無関係では無い。これらの事実は、上記の「結婚という型」に対する概念の存在を、雄弁に証明している。
ちなみにフランスでは、婚外子の出生に対する法的整備を進めた結果、驚異的な出生率の回復をみているという。今なお出生率低迷にあえぐ日本とは大違いである。
しかし、そうした行政サービスを悪用するケースが後を絶たないのもまた現実。アメリカでは、初めから政府の援助を目的に妊娠(この場合、父親は誰でも良い)するケースも多く、地域の財政を圧迫する一因にもなっている様だ。

更に「家族」というものへの規範が強く、婚外子や事実婚を批判しがちな韓国や日本に対して、スウェーデンやフランスでは、大変ユニークな家族文化とその生活に対する柔軟な考え方を持っており「一生独身でいる」ことの比率も際立って高いのだそうだ。
それは、婚外子、連れ子、養子など、その形に捕われず、とにかく「子供を持つ」という経験を大事にしているからに他ならない。
同時に、同棲や事実婚、ゲイであっても「パートナーの存在」が大切だ、ということに比重を置いている結果でもあろう。
ならば、今後は日本でも「色々な家族の形があって良い」という考え方のもと、個々が幸せに感じる家族生活の模索が可能なのではないか?
20世紀の偉大な芸術家であった岡本太郎氏は、現実的には『妻』であった敏子女史を、法律上「養女(娘)」にしていたことは、案外知られていない。
男性に依存せず「自立している女性」のみが男女平等(同権)を獲得している、とも言いにくい(特に日本では制度上、母子・父子家庭への援助があまり充実していなことも、その理由の一つ)。
極論ではあるが、世界には未だ「一夫多妻制」を認める国も存在している。少数ではあるが、妻が家計を支え、夫が「主夫」として家事・育児全般を担当する家族もちらほら出始めている、と聞く。
この様な家族が増えていけば、実に喜ばしいことであると共に、日本の将来も明るい。
一方、日本人が持つ家族の理想像は、育児スタイルにも影響を及ぼしている。完璧を求め、子供の教育にも熱心になり、ついつい過保護になってしまう。
そして、次第に過剰な干渉で子供の人権さえも無意思に犯してしまう。果ては「お受験」という言葉が示す通り、自分の子供には「できる子」であって欲しいと願う余り、その重圧がかえって子供を苦しめ、最終的には親自身をも追い詰めてしまう。
しかし本当に重要なのは「親は子供から少し離れてサポートに徹する」ということだ。親は、必要なときにのみ子供をしっかり指導し、あとは本人の意思決定力に任せる。
日本では共働きの親が、いかに子供と一緒の時間を作るか、ということにしか着目していないことが多い。しかし実際は、共に過ごす時間の長さではなく、的確にサポートできているか否かの方が重要なのだとか。
夫婦間の育児分担にも、もっと自由な発想を取り入れれば、家族はより幸せに近づけるはずだ、と専門家は指摘している。
たとえば、妻が△△を担当、夫は□□を担当するというものを、もう一歩踏み込んで、夫婦一緒に○○をしよう!と。
そういう共同作業が非常に重要なのだ。つまり、できるだけ夫婦一緒の方が子供にとっても幸せで、教える内容にもズレが出にくいからなのだ。

「家族」の多様化の為には、行政や地域による公共サービスの充実も、当然不可欠であろう。
そして、日本でもさまざまな家族像が現実の物となり、各々の家族が「独自の幸せ」を確立できる社会が形成され始めた時「家族」という存在(関係性)へのマイナスイメージも、少なからず変化していくことだろう...。
地域や民族、国家や社会と言っても、所詮は「家族」という最小単位組織の集合体に過ぎないのである。
その家族の幸福が、そのまま世界と地球の幸福となれば、それはそれで素敵なことである。



参考・「家族意識の変化と少子化」 渡辺秀樹著(慶応義塾大学 教授)

text by wk

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