6月24日デザイナーJohn Galliano(ジョン・ガリアーノ)が退任して初の新クリエイティブディレクターとしてBill Gaytten(ビル・ゲイテン)が就任した「JOHN GALLIANO」のメンズコレクションがパリで開催された。
そこに自分の名を冠したデザイナーの姿は無く、当のガリアーノはショーの2日前に裁判所に出廷していた。
事の発端は2月にパリのカフェでカップルに対し暴言を吐いたと報じられ、後の3月には酔っ払ってカフェの女性に「ヒットラーが大好きだ」と騒いでいるビデオがyoutube 上で公開されたことで人種差別的な発言としてクリスチャン・ディオールのクリエイティブ・ディレクターの座を追われる事となった。
真相は闇の中だがカップルからホームレス扱いされ、彼らから「外見と服装に対する暴力的な批判」を受け、言葉で侮辱された上に椅子で殴られそうになったからだと弁明している、
もちろん人種差別には断じて反対の立場を取るものだし、公共の場所での人種差別的発言も許すべきではないと思うが、今回のガリアーノの解任にはどこか釈然としない部分はそこらにある。
なぜかあっという間に巷に流布され、そしてすぐさま問題となる映像が流出したのは釈然としない。
通常であればこの種の問題は、ガリアーノの謝罪会見としばらくの期間の謹慎などで乗り切れそうなものだが、、、
しかし、背景として ファッションのあり方や体制などに大きなうねりがありその中の出来事の一つとしてのとらえられる気もしないでもない。
ディオールに限らずラグジュアリーブランドは90年代のような強烈な個性のデザイナーの才能と商業的成功が交錯する緊張に満ちたクリエーションをもう必要としなくなっている。
去年のアレキサンダー・マックイーンの自殺やマルタン・マルジェラのブランド離脱、ゴルティエのエルメスの離脱などがそうしたことを示す一連の出来事だったのではないか?
ガリアーノの人種差別的な発言は確かに許す事ができない。
しかし彼はファッションデザイナーの天才という事には間違いない。
その天才達が次々に居場所や発表の場が無くなってきているのは事実。
ガリアーノも過去、投資者とデザインの問題でトラブルを起こしたり、あまりにも革新的過ぎて「売れない服」という烙印を押されたりした。当時、ファッションの主流はグランジファッションとミニマリズムで、対して50年代風の華やかなスタイルとテーラードの技術(テーラリング)にこだわり続けたガリアーノの服は「売れる服」という意味では受けが悪かった、パリに移ってもロンドン同様に資金難で友人の家で寝泊りしながら、何度も断られながらも何度も投資家をまわり、資金の工面に走っていたと言う。また生地が買えず、作品数は17着、モデルも有志で参加、といったコレクションもあった。
しかし実際デビューコレクションの映像を見るとVogue誌のエディター アンドレは「こんな才能のあるやつはほかにいない!本当に本当に天才なんだ!!でも実際、彼はノーマネーなんだ!」と声を荒らげ叫んでたのを記憶している。
何とか苦難を乗り越え、90年代半ばにいよいよ転機を迎え、ジェバンシー、ディオールのディレクターに抜擢され、おばさんブランドだったディオールを再生させ売り上げを飛躍的に伸ばしたのはまぎれも無い才能が昇華した形であった。
しかし今、時代は既に天才や強烈な個性に対して尊敬や閉ざされた憧れの世界であったFashionの時代は終わったのかもしれない、もうすでに誰もファッションに参加できるようになり、ブランドの価値は急激に変化し、Fashionの価値は根本的に変わり、拡散し、扉は開かれいる。
その証拠に特別な人でしか見れなかったショーはリアルタイムでネットで見れ、その場でコレクションアイテムを注文できるようになり始め、コレクションの洋服が低価格で手に入れたいならファストファッション店でコピースタイルを手に入れれば良いし、低価格でブランドにこだわりたいのならファストファッションとのコラボレーションの服を手に入れる事もできる。
しかし何よりもヤングジェネレーションにとっては高級ブランドで身を固める事はかっこいいとは考えていないし、カタログ化したファッション雑誌には夢や希望を見いだせずにいる。すでに従来の価値や概念そのものが変化してしまったのでは無いだろうか?
既に扉が開かれた時代これからのファッションはどこへ向かっていこうとしているのだろうか?
ちなみにJohn Gallianoが手がけていた「Christian Dior(クリスチャン・ディオール)」の後任デザイナーはいまだ未発表のままだ。
text by keso