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    2010.12.22
  • posted by kenshin.

Alexey Brodovitch









まだまだ不安定な経済状況のあおりで多くの業界が過渡期を迎えているのは周知の通り、その中でも本来人々に夢や希望をもたらし、イマジネーションを与えてくれるファッション業界は常にエッジを伝えなければいけない使命のもとに今まさに現代の情勢を知らしめているかのように変化と、変革を迫られている。 その衰退の原因には数多くのファッション雑誌が次々と廃刊していくのが無情に物語っている。 テクノロジーの進化に伴い、電子書物のように新たなビジュアルコンテンツの出現、コマーシャル形態など様々な変化がアナログな手法である雑誌媒体の存続を脅かし、多くの企業やブランドの広告撤退も拍車をかけている。 中でも、歴史あるハイファッション誌の日本版が立て続けに休刊したのはまさに時代を象徴した出来事である。 その理由の一つとして、現代において世界的に日本がファッション産業のマーケットとして、ブランド全盛期と言われる80年代のバブル期とは真逆に魅力が薄れているのがあるのだろう。更にはファッションに対して、人々の価値観や捉え方が変化して来ているのもあり、多種多様な物が溢れる事で、本当に心ある物事をキャッチし探求する感覚が鈍っているとも言えるかもしれない。 特に日本はフラット化する情報に翻弄され、深く追求するパワーまで薄れているのではないかと危機感を感じずにはいられない。











只、世界情勢や経済が変わるのは今に始まった訳ではなく、幾度も過渡期や変革期は起こっていた。 しかし幾度も困難にありながらも1世紀以上も前から現代に至るまでファッション雑誌として1867年、アメリカで創刊された「ハーパース・バザー」の存在は大きい。 そこには、すばらしい編集フィロソフィーと制作に携わった多くのトップアーテイストの功績があり、また時代に応じたビジネス感が存在する。 只、残念ながら、日本版は休刊してしまっているが、その迅速な引き際もまた、時代にフィットさせたビジネスバランスがあっての事だろう。 ファッション業界として当然周知の事ではあるが、「ハーパース バザー」は「ヴォーグ」(1892年、アメリカで創刊)と双璧をなす女性誌としては世界最古の歴史を持つハイファッション誌であり、特に'40~'50年代に伝説的な編集長カーメル・スノーと名アートディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチによって、黄金期を築き上げたのは有名な話。そこには、アナログな人の熱い心がひしひしと伝わるほど、制作に注ぐ情熱が当時の時代とリンクしファッション誌の可能性を引き上げ、新たな「ハーパース バザー」の誕生へと変革していった。 また時代背景や状勢の垣根を越えたものがあり、その立役者としてアートディレクターであるアレクセイ ブロドウィッチの存在は大きい。 今あるファッション誌の基盤を作ったとも過言ではないほど、その活動には多岐にわたり想像力に満ち溢れている。 彼のもたらした数々の功績やその生涯には、現代のファッション誌が忘れかけている大切な何かを知らしめているぐらい、魅力的ですばらしい。 ではその存在はどのようなものだったのだろうか?
1898年ロシアとフィンランドの国境付近のOgolitchiで、 父親は医師、母親はアマチュア画家という裕福な家庭に生まれ,  その後モスクワとレニングラードで成長するが、 両親の意図に反してアート教育は受けなかったと言う。 1914年に帝国軍に入隊し、騎兵隊の士官として第1次世界大戦に 参加します。1918年にロシアからイスタンブールに逃げ、1920年には 亡命してパリで暮らすようになり。すぐにディアギレフによるバレエ・リュス雇われ、ピカソ、マチスの手掛けた舞台装飾に参加している。 しだいにアート界の先駆者達のサークルに加わるようになり、 レジェ、マン・レイ、ル・コルビジュ、ニジンスキーらと交友を持つようになります。 特にアートに革新的アプローチを行っていたディアギレフから強い影響を受けている事で、 1924年にBal Banalポスター・デザイン競技会で1等を受賞し グラフィック・アーティストとして注目を集めます。 その後、雑誌レイアウトや 企業ポスター、テキスタイル、服装品などのデザインも次々と手掛け、成功を手にして行く事になります。
1930年に当時のペンシルベニア美術館工業デザイン学校での広告デザイン学部設立のために米国に招待され、 1934年に新編集長カーメル・スノウの下でハーパース・バザー誌の アート・ディレクターに就任し、今までの雑誌レイアウトの概念を革命的に変えていきます。 彼は写真、テキスト、余白部分を統合し、 複数ページで写真作品大胆にデザインして見せることを行い、雑誌レイアウトに 初めて白スペースを導入したことでも知られています。 写真も大胆にレイアウトに取り込み、トリミングを嫌がることで有名なアンリ・カルチェ=ブレッソンでさえ、 トリミングのないレイアウトと、あるものを両方見せられて、 作品のトリミングを認めたという逸話が残されている。  スノーとブロドヴィッチは、マン・レイやホイニンゲン・ヒューン、ルイーズ・ダール・ウォルフ、ブラッサイ、ビル・ブラントといった革新的な写真家を起用し、次々と「ハーパース・バザー」で発表した。 '33年には当時、報道カメラマンだったマーティン・ムンカッチと年間10万ドルという破格のギャラで契約。モデルをマネキンのように立たせてスタジオ撮影をしている時代に、彼らは屋外での撮影を指示した 。ファッション写真に「モーション」という概念を導入したのだ。 動きのあるダイナミックな写真は、以後、多くの写真家に多大な影響を与えた。 その背景には「フォトモンタージュ(多重露光)、ソラリゼーション、彩色といった、シュルレアリスム的な技巧を、大胆にファッション写真に取り入れ、前衛的・実験的な作品を提供しつづけた。一方で、技巧的でなく、ストレートに動きをとりいれただけのような、華麗な作品もある。 '45年には、ブロドヴィッチの「デザイン・ラボラトリー」で写真を学んでいたリチャード・アヴェドンが専属カメラマンとして参加。 スノー、ブロドヴィッチ、ヴリーランド、アヴェドン。 ここに最強の布陣が完成し、ファッションは黄金期を迎えた。 '47年には、クリスチャン・ディオールの初コレクションを大々的に取り上げ、「ニュールック!」と絶賛。ファッションのみならず、ジャン・コクトーやジョン・チーヴァーの小説、ダイエット、演劇レビュー、政治関連の記事も掲載した。 また、1958年までの在任中、アンリ・カルチェ=ブレッソン、ブラッサイ、マン・レイ、ビル・ブラント、 ユージン・スミスなどの人材を起用するとともに、無名だったリチャード・アベドンやロバート・フランク を見出しています。














また、ハーパース・バザーの仕事のほかに1939年から2年間、ニューヨークの有名デパート、 サックス・フィフス・アベニューのアート・ディレクターに就任しています。 その他、エリザベス・アーデン、ヘレン・ルインシュタイン、 セインズベリー、シアーズ・ローバックなどの広告キャンペーンや財務省や赤十字のポスターも 手掛け家具やランプのデザインも行っています。  1949年から1951年にかけてグラフィックデザイン雑誌 "ポートフォリオ"を創刊しています。これは経済上の問題で3号までしか刊行されませんでしたが、 彼のグラフィック・デザイナーとしての頂点の仕事として高く評価されています。
勢力的に仕事をこなす一方で"デザイン・ラボラトリー"と呼ばれた 毎週夕方に開催されたコースで若いクリエイター育成にも 力を入れています。1936年ペンシルバニア美術館学校の 上級コースから始まり、次第にカジュアルなワークショップに変化していきます。1941年にニューヨークに移りニュースクールや写真家の スタジオなどで1959年まで開催されます。ブロドビッチは、"デザイン・ラボラトリー"をクリエーターが表現方法の実験を行う場所と位置付けていました。 講義を聴くのではなく、レイアウトや写真表現の課題研究で参加者間の激しい作品批評が行われました。 リチャード・アベドン、アービング・ペン、ロバート・フランク、リリアン・バスマン、 アーノルド・ニューマン、ブルース・ダビッソン、ダイアン・アーバス、ヒロ、バート・スターン、ルイス・ファー などの写真家のほか、デザイナー、アート・ディレクター、モデルらが参加しています。 
グラフィック・デザイナーとしても知られていたブロドビッチは 1945年に写真集"Ballet"J.J.Augustin Publisherを発表し 写真家としての驚くべき才能も知られるようになります。 1935~1937年にかけてセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの米国公演 を舞台裏から撮影したこの本は 500部限定となっていますが実際は2~300部程度しか印刷されなかったそうです。 ほとんどが業界内びクリエーターにプレゼントとして渡され、 アーティスト達に多大な影響を与えています。 バレーのエッセンスや雰囲気を、微妙なトーン、動き、ブレ、ダブりを駆使して表現したイメージは 21世紀のいま見ても革新的な作品集です。 ブロドビッチこそがカメラで 動きと、スピード感を表現する真の表現手法を創造したと言われています。  自身の写真集のほか、アンドレ・ケレテスの"Day of Paris"(1945年) 、リチャード・アベドンの"Observations"(1959年)などのデザインを手掛けています。









しかし、すばらしい才能と偉業だけではないのが人間の性なのだろうか? 彼のキャリア末期は不運続きでした。2度にわたる自宅の焼失で"Ballet"の ネガを含む貴重なオリジナル資料をなくしています。  また夫人との死別によるショックで 抑うつとアルコール中毒に苦しみ、入退院を繰り返します。入院中に ミノックス・カメラで患者を撮影したことが伝えられていますが、 作品はいまだ正式に発表されていません。 一時期、"デザイン・ラボラトリー"を再開しますが、 何回もの心臓発作を起こしたことから最終的に1966年にフランスに戻ります。 1971年4月15日に、アビニオン近くで世間から忘れ去られた存在で亡くなっています。まさに栄光と挫折、いかに波瀾万丈な生涯だったのかが伺える。
どれほど地位や名声を築いたとしても、やはり一人の人間として誰もが始まりがあれば終わりは必ず訪れる。 只、その存在していた中で、日常の些細な事から大きな偉業も分け隔てなく、自分以外のものにどれだけ多大なる影響をもたらし何を残せたか。。 長短関係なく人間の生涯とはそれに尽きるように思う。 後者にいかなる未来を切り開くか?そんなヒントを与えてくれている先人の遺業は、ファッションに限らず我々は新しい事に目を向ける前に時に立ち止まり、 過去ものと切り捨てず、今ある事も過去が存在した上で成り立っている事であり、時に先人の遺業を振りかえって見るべきだと切にの思う。
ブロヴィッチはまさに継続する、人から人への連鎖の重要性を伝えてくれた。偉業もしかり今の現代に最も必要な事なのではないだろうか? その証として ハーパース バザー が現代に存在している事がすべてを物語り、後者に与えた影響は計り知れない。

死後の1982年に彼の業績が再評価され、パリのGrand Palaisで回顧展が開催されている。




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