現在の芸術がどんどんと変化していくなか、沢山の情報をくぐり抜け、一人一人の芽がでてくる、それは、もちろん昔の情報はあるのだが、そういった情報を垣間みれ、新しく、若い人達がどんどんと新しいアイデアを生み出し、それらを表現する。
氷河期の今現在、こういった演劇、現代美術という自由な作風を求められる物にはなんらかのメッセージがあるのだと希望を寄せる。
そして、世界中が変化を求めている中、とても変化しているとは思えない。
そんな中、東京の池袋周辺の劇場では、「フェステバルトーキョー10」という祭典が10月から11月の間に開催されており、今回で3回目ということだけあって、コンセプトも「新しい価値を創造する『場』としてのフェスティバル」という先鋭的な元で世界中の創造者達がわらわらと東京にやってきた。
これらの仕掛人は国際共同製作による舞台作品や関連プロジェクトを多数企画・制作してきた相場千秋氏は「問題意識をプログラムとして立ち上げるに当たっては、「新しい価値を創造する場としてのフェスティバル」ということを意識しています。「新しい価値」というのも漠然とした表現ですが、価値を創るということがアートの本質であり、いままでの価値観を打ち破るような先鋭的なものをプログラムするというのが大きな方針です。」と語り、当たり前のコトなのだが、それをするにはとっても大変なことなのだ。
「演劇を脱ぐ」というキーワードがこのF/T10には散りばめられている、その言葉はとても挑発的であり、生々しくもあり、正当派のような意識も感じる。第一回では「新しいリアルへ」第二回では「リアルは進化する」の一連の上演を通じ、演劇というメディアはますます複雑化を目指していきます。古典的な表現であったり、単純明快な表現であったりと、単純な物語の表現が困難になりつつある現実では、自らの境界線、存在価値を表す姿を目撃される。「演劇を脱ぐ」という一旦とてもシュールにも聞こえがちだが、意味のある戦法であり、やはり観客や演劇界にもある意味、新たな挑戦的発想なんだなと確信した。
海外からも3つの作品が発表され、それらの創造性は独自の発想であり、よりコンセプチュアルな作品でもある。経済危機後の世界に漂う不安感を、共有すべき物語が失われた村の住民達による散漫な合唱や身振り、断片的なテクストを通じて、ユーモアとメランコリーたっぷりに浮かび上がらせる作品であったり、大量消費社会が生み出すグロテスクな現実を、そのままグロテスクなマテリアルとして舞台上にぶちまけ、その加担者である観客をも激しく挑発したりなどと、世界の「今」の気持ちや状況をクリストフ・マルターラーや、ロドリゴ・ガルシアたち監督は、それらの考えを構築している。
中国のウェン・ホイとウー・ウェンガンは文化大革命という国家の歴史の重みを、個人的な記憶と体験、経験を通じて、8時間という驚異的な上演を試みる。それはとても短い時間であり、彼らが体験してきた時間を表現するには、最低8時間だったのであろう。それだけ身体、心身ともに削られるような思いで挑戦し、生身の演劇を表すのである。
演劇や現代アートというカテゴリーというのは、とても社会性、政治性メッセージが込められていたり、今の生きている人達からのメッセージでもあったりする。それらを敏感に察知してくれる人々は、これらの行動を理解し、高め合う、そして人との結び合いをとても大事にする、人々が存在しているからの、「場」であり、そこから血となり肉となる、大切で当たり前のことなのだ。
若さ故の誇り、威嚇、ストレートな思いであり、これからの社会に確実に存在しなければならない人達なのである。この世界を守るため、先陣をきって社会を「演劇」「パフォーマンス」「現代アート」を通じてこれからも発信していってもらいたい。
[reference]
festival tokyo10
text by noku