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  • Posted on
    2010.12.16
  • posted by kenshin.

年賀状に象徴される現代の人間関係






近年、パソコンや携帯電話の普及により年賀状をかかない人が増えてきたように思います。

子供の頃、年賀状は仲の良いクラスメイトや学校の先生、親戚、稽古事の友達といった日々の生活や行事のな中で深く関わる実に様々な人に対して出していたのではないでしょうか?

私は,心からの「感謝」「尊敬」「友情」「親愛」を一年のうち唯一、素直に添えることができる機会として、送る相手の顔を想像しながら年賀状を書くことが楽しかったような記憶が残っています。また、元旦の朝には、年賀状はまだか、まだかととポストの前で楽しみに待ち構えていた事を思い出します。

しかし、高校、大学へと進学し成長と共に知り合いも増え遊びや勉強、バイトなど、時間に追われる日常が続きます。また高校に進学した頃から携帯電話を持つようになりました。

その中で年賀状の宛名を前にした一人一人に対する思い入れが,いつの間にか一枚一枚に対する面倒臭さに変わってしまったように思います。「いかに枚数を減らすか」ということを考えるようになり、「利害関係の有る無し」に重点を置き始め、次には「メールで送ろう」「携帯からにしよう」と、どんどん形骸化していき、終いには貰う側からするとダイレクトメールのようなものになってはいるのではないでしょうか。しかし、これも時代の流れなのかもしれません。 年賀状の歴史も時代によって形態をかえ、現代に至るのです。


年賀状の起源は古く、平安時代の漢文学者、藤原明衡(あきひら 987~1066)が晩年に著した手紙模範文集「雲州消息(うんしゅうしょうそく)」のなかに年始の挨拶の文例が載っており、これが現存する最古の年賀状とされています。

そもそも、この、年始の挨拶を書状にして伝える風習の以前には年始の挨拶回りはすでに奈良時代にはあったそうです。平安時代には「年始回り」として習慣化されており、前年、世話になった主君、師匠、父母、親戚、近隣の人達の家に新年の挨拶にお互いに顔を合わせて回ったということです。

しかし、社会が複雑化するにしたがい、その日に直接会えない親戚・知人の数も増えてきます。そんな人に対して、年賀の意を伝えるため、文字や紙の普及とともに書状が交わされるようになったようです。                    このようにわが国には新年の年始回りという行事があり、それが行えないような遠方などの人や複雑化するコミュニティーの年始回りに変わり、年始の挨拶状(年賀状)を届けることが始まったといわれています。


そして現代、年始のご挨拶が簡略化されて年賀の書状になったように,年賀状がメールに替わっていってしまう風潮があるように思います。

問題なのは年賀状がメールに変わった事ではなく、ボタン一つで簡素化される人間関係、『誰それとは最近連絡がないから今年はもう出さなくても良いだろう」と一時的かもしれない状況で関係を断ってしまうことです。確かに、どんなに長い間交流が無くても、今はメールや携帯電話で気軽に連絡がとれ、またすぐに交流が始まるかもしれません。しかし,年一回の年賀状のやり取りだけだとしても,気分だけで連絡をとるのではない、お互いの息災を定期的に確認し合う相手の事を思う、心の交流が生み出す絆のようなものが現代の日本には欠けてしまっているような気がします。


その昔,江戸の講では初対面では「本名を名乗り合わない」という暗黙の了解があったそうです。 「八度の契り」といって、初対面の方にはそう簡単に名前等を明かさないという慎重な人付き合いを促す教えもあった程です。講で何度かご一緒し,家柄や肩書き等を抜きにその方の本質を知って初めて名乗り合う。それから親戚同様の付き合いが始まる。そして、死ぬまで続ける覚悟でお付き合いを始めたといいいます。しかし、現代人の広く浅い人間関係から成り立つ社会の脆さをこのような年賀状の在り方が象徴しているように思います。

参考資料

wikipedia


年賀状博物館




text by GM




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