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    2010.10.28
  • posted by kenshin.

杉浦茂 〜消しゴムを持たない漫画家〜




「漫画」という言葉は、字義的には「気の向くままに絵を描く」という意味である。「漫画」という用語は日本で生まれたが、どのような経緯で生まれたかはよくわかっていない。「気の向くままに(文章を)書く」という随筆を意味する漢語「漫筆」が「漫筆画」を経て「漫画」になったとする説[と、「漫画(まんかく)」という名のヘラサギの一種から「種々の事物を漁る」意になったとする説がある。『日本近代漫画の誕生』は、「まんかく」が戯画の意味を持たないことを指摘し、前者を支持している。いずれも文章を指す用語が絵を指すように転じたとされる。by wipedia

現代では漫画=mangaは世界中に認知されるほど、日本を代表するサブカルチャーの象徴でもあるのは言うまでもないが、 その漫画の根底を形成する上で日本漫画界に多大なる影響を及ぼし、語源の由来を真っ当に受け継ぎ突き進んだ漫画家がいる。
昭和初期を代表する日本の誇れる漫画家、杉浦茂である。

死の直前まで奔放に作品を描き続けた息の長い漫画家だった。昭和20年代後半~30年代前半という短い間に発表された『猿飛佐助』や『少年児雷也』といった作品群で子供たちの胸をわしづかみにした。


現在に続く漫画の地平を切り開いた手塚治虫も、杉浦茂のことは「先生」付けで呼び、作風を「まねできない」と評価していたという。もちろん手塚治虫の方が杉浦より漫画家としては後輩で、尊敬していた田河水泡の弟子だったということもあるのだろうが、手塚が手放しで人をほめるのも珍しい事だったと言われる。

また「ギャグ漫画」という言葉を定着させた赤塚不二夫も、熱烈な杉浦ファンだった。「レレレのおじさん」は杉浦作品へのオマージュというのは有名な話で、確かにおじさんの目と、頭の上の手が杉浦漫画をほうふつさせる。

このほか同業に止まらず、アニメーション監督の宮崎駿、作家の筒井康隆、美術家でデザイナーの横尾忠則、ミュージシャンの細野晴臣と、杉浦への敬愛を公言してはばからないクリエーターは数多い。
特に細野晴臣は「小学生の頃、ぼくの日常の動作や会話はすべて杉浦茂スタイルであった」「ぼくは音楽の手塚治虫や杉浦茂になりたいのかもしれない」と述べている。

杉浦茂の創作の世界は鉛筆による下書きなどいっさい行わず、いきなり白紙の原稿用紙にペンで書き込むという、他者に見られない手法であった。そこには、ストイックなまでに一貫した自身のフィロソフィーが存在する。
ぶっつけ本番だから絵が生きてくる。
下書きをかっちりやると絵が死んじゃう、鉛筆でがっちり書き上げるんじゃ面白くない。

他にも画風については、児童作品向けの丸顔キャラ以外に、劇画調やサイケデリックな画風も使いこなし、その渾然一体となった混沌な作風からカルトな人気を得ており、杉浦茂自身も作風について「日本児童文化になんら貢献しない、馬鹿馬鹿しいまでに、荒唐無稽を絵にした様な「ゲラゲラまんが」なのだと語っている。
只、そんなストイックでありながら漫画界の長老的なった後も、ファンレターにはイラスト付きで返事をするという読者第一の姿勢を貫く所は、第一線を退いた後も90歳まで現役を続けた証だろう。 まさに戦後日本漫画界の新たな時代を切り開いた立役者の一人であった。









すぎうら・しげる 
漫画家。明治41年、東京・湯島生まれ。旧制中学のころから洋画家を志すが、生活上の理由で断念。昭和7年、知人の紹介で『のらくろ』で知られる漫画家、田河水泡に入門し、児童向け漫画を手がける。戦後の20~30年代に『猿飛佐助』『少年児雷也』『ドロンちび丸』『少年西遊記』といった少年ギャグ漫画の先駆的作品を次々発表。ほかの代表作に『モヒカン族の最後』『聊齋志異(りようさいしい)』など。

遺作となった「2901年宇宙の旅」を全編書き下ろした後の2000年4月23日、92歳で永眠した。


reference  産經新聞



text by HM


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