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    2010.09.20
  • posted by kenshin.

マダム貞奴  〜新しい女性観の誕生の源流を探る〜



あの彫刻家 ロダンやピカソに愛され「死のベリーダンサー」と評されパリッ子たちの最も注目される女性像に登り詰めた日本人女性がいた
それは今から約100年以上前の西暦1900年、フランス パリでの事であった。 その彼女の名は川上貞奴という人物であった。
貞奴は東京・日本橋の質屋・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となります。
貞奴は1894年書生芝居をしていた川上音二郎と結婚
1899年に川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で女形が死亡したために急遽代役を務め、事実上、日本初の世界舞台の女優となるのです。ところが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされます。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着し、極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が勘違いした観客に大受けし、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得ることになります。

1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会に当時、画期的なダンス公演を行っていたロイ•フラーに呼ばれ万国博覧会のロイ•フラー劇場で演目を演じます。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていました ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出ましたが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話があります。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊り、踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したといいます。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になりました。 パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与します。(一部WIKIPEDIA から抜粋)

なぜこれほどまで「マダム貞奴」が評価されたのかというと、それは貞奴の行った演技等が画期的であり、新しい価値観をこの時代に生み出し、社会全体に及ぼす影響が大きかったとからだと言います。

貞奴が公演を行った1900年パリ万博では今までの価値観を根底からひっくり返すことが同時多発的に行われてきました。
その一つが女性的武器を天真爛漫に活用し社会に新しい「セクシー」という形を誕生させた事であるといいます
当時の女性はガチガチに体型を矯正したコルセットを身に着けておりセクシーのシンボルというよりはむしろ階級を表すものであり、「いい女」と形容される女性は貴婦人か、あるいはパトロンを持ち社交界の女性であり教養、愛嬌、活発で知的好奇心のある文化的リーダー型の女性、すなわち階級を表すような女性だったのです。
しかしこの「いい女」の価値観をひっくり返すこととなった女性たちが女優、ダンサー、歌手といった「見せる仕事」に従事する女性たちであったのです。
当時、画期的なダンスを開発したロイ•フラーの踊りは今まで女性の体を縛り付けていたコルセットを外しナチュラルなシルエットをあらわにし、その体のラインが自由自在に動き回り、薄い大きな布を体に巻き付かせその布をはためかしながら踊りを踊るという本来の女性の自然な体型が目の前で自由自在に動いていくという事がセクシーの対象として新しい価値観を生み出していきます。






ロイ•フラー 1902




また貞奴の舞台演劇もそのあたらしいセクシーという価値観を開発し表現した事によって成功を収めたのである。

それは演技中に当時の階級のシンボルであるはずであった衣服を脱ぎ捨てていき、最後は肌がちらちら見える下着である白い着物1枚になっていくというものであり、 さらに演目上で死に至る芸者の役柄であった貞奴の髪を振り乱し激しく動き、激しく表情を出して死んでいくという演技はヨーロッパには無く、当時コルセットに縛られていた人々からは 全く考えられない価値観であり、そこにある種の自由な精神の表現や可能性、女性としてのエロスティチズムを発見したのでした。

もちろん女性の体のラインの表現を美の典型やエロスティズムとしてロイ•フラーや川上貞奴の出現以前にも表現されてきましたが、それはあくまでも「静」「STILL」の中の出来事でしかなかったのです。 
しかしロイや貞奴は矯正された体ではなく、女性本来の体のラインをあらわにし、踊りまわり、演じまくるという動きという魅惑を中心に置き、静から動という自由な開放感あふれるものにシフトさせていきました。

その新しい価値観は小説家であり有力な文化人であったアンドレ•ジットやピカソ、ロダン等を虜にします。その様は「死のベリーダンス」とまで名づけられました。



その「セクシー」という価値観は当時の一般の女性たちに影響を与え、「静」や「階級」の象徴であり、自分たちの女性観という物を縛り付けていたコルセットを外し、自らの肌を見せる事を意識する女性たちが次々に現れてきます。

それは、ごく普通の都会の女性である一般の女性たちの自らの女性の意識を改革していったのです。
無邪気で明るく奔放なセクシーという概念は酒場や娼婦といった職業的なポルノグラフィーとは本質的に異なり  ごく普通の都会の女性である一般の女性たちが親元からはなれ、経済的にも独立し、自由に暮らし、奔放に恋愛をする新しい倫理観を持つ現代的な女性の価値観の始まりだったのではないでしょうか?

貞奴が演じた新しいセクシーという価値観は結果的に女性たちの精神や地位を解放していく事となっていったのです。





1901. 40 x 31 cm. India ink & Gouache. Pablo Picasso















TEXT BY KESO

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