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    2010.01.30
  • posted by kenshin.

勝ち組 負け組











「私は、このとき負けたというデマにはのるまいと決心しました。 武力による戦争は終わり、今度はアメリカとの思想戦がはじまったことを知りました。 日本人同士が、アメリカ側と日本側に分かれて、思想戦を開始したのです。 私は、日本人としての信念をつらぬき、 天皇陛下様からの帰国命令が届くまで、ブラジルでかんばる決心をしました」
(ブラジルへ 日本人移民物語/藤崎康夫)




昭和20年8月15日、玉音放送によって日本国民は日本の敗戦を知ることになりましたが、 ハワイや南米の日本人移民、前線の日本兵の中には 日本敗戦のニュースを敵国側の流したデマとして受け止め、 日本の敗戦を信じない者も少なくなかったそうです。

特に戦前より多くの日本人が移民していたブラジルにおいて、 8月15日以降(ブラジル時間で14日)、 日本人社会は日本の敗戦を認める者、そして敗戦を否定し日本の勝利を信じる者とに分裂するという事態が起こりました。
敗戦認識派、否定派はそれぞれ "負け組"、 "勝ち組"  と呼ばれ、その対立は深刻化し、 遂にはブラジルの地で日本人同士が血を流し合う対人テロ抗争にまで発展していきました。 多くの犠牲者を出したこの抗争は、その後のブラジル日系社会に長きに渡って暗い影を落とし続けることになりました。
勝ち組を生みだした原因は何だったのか?
高度に情報化された社会に生きる私たちにとって、終戦直後のブラジルで起こったこの事件は多くの示唆を含んでいます。

日本政府は1908年よりブラジルへの移民事業を開始し、 第二次世界大戦が本格化するまでに多くの日本人移民がブラジルに入植していていました。 日本国内の人口問題、失業問題の打開策として始まった移民事業でしたが、 劣悪な労働条件や、日本と余りにも異なる文化や環境、言葉の壁など、 移民の人々を取り巻く環境は実に過酷なものであり、ブラジル社会に溶け込むことは容易ではなかったようです。

彼らの多くは、永住ではなく出稼ぎを前提とした移民であり、 いつか故郷に帰って錦を飾ることが共通の夢であったと言われています。 慣れない土地での懸命の努力の結果、1930年代までにはブラジル各地に日本人コロニーが築かれ、 日本人学校が建てられ、邦字新聞が発行される等、ブラジルにおいて安定した日本人社会が形成されるまでになっていきました。

しかし、1930年にはブラジルでは革命が起こり、ファシズム的な性格を持ったバルガス新政権が誕生、 ナショナリズムの高揚が叫ばれ、ブラジル国民の間に外国人排斥の空気が強まりつつありました。 そんな中、1931年に日本は満州事変を起こし、このことがブラジルの日本人社会に影響を与えていくことになります。
日本政府は、国策として大量の日本人移民を満州国に送り込み、日本人移民の流れはブラジルから満州国へと変わっていき、 このことでブラジルへの後続移民が激減していったのです。
またブラジルの世論では、日本のブラジルへの移民の裏には満州国建設と同様な侵略的意図をがあるのではないか、 という警戒感が強まっており、排日論が議論されるようになります。
さらに、ブラジル国内のナショナリズムの高まりは、各国移民に対する強力な同化教育政策を打ち出し、 1938年には児童への外国語教育が禁止されました。
各地の日本人コロニーの日本人学校は閉鎖を余儀なくされました。 このような状況の下、日本人移民たちは孤立感と将来への不安を強く感じるようになっていったそうです。


■ 世界大戦への突入と移民の孤立化

1940年6月、神戸を出港した「ぶえのすあいれす丸」が戦前最後のブラジル移民船となり、 1941年8月、戦争の機運が高まる中、ブラジルで全ての外国語新聞の発行が禁止され、数あった邦字新聞も全て廃刊となりました。
1941年12月、日本は真珠湾攻撃を行い、遂に太平洋戦争が勃発します。
1942年1月には、連合国側についていたブラジルは日本との国交断絶を宣言し、日本大使館、領事館はすべて閉鎖されたました。
敵国人となった日本人移民たちに対して、サンパウロ州保安局は公共の場での日本語の使用や、日本語文章の配布、 私宅での集会の禁止など厳しい取締令を発し、日本人の逮捕が相次ぎました。 そんな中、1942年7月、日本外交官や政府役人たちは残された移民たちに指針を残さず、捕虜交換船で日本に帰っていきました。 このとき、移民たちの多くは自分たちが日本に見捨てられ、ブラジルに取り残されたと感じたそうです。

戦争が激化するにつれ、日本人移民への取り締まりも強くなり、 日本人の国内旅行の禁止や、一部都市からの強制退去なども行われるようになりました。 本国には見捨てられ、自分たちの状況を知るメディアさえほぼ失われ、 敵国人としての迫害を受ける日々の中で、移民たちは明日の見えない不安な生活を強いられました。 そんな中、日本人移民たちを支えたのは、 いつか日本が戦争に勝利し、故郷に帰るその日を待ち望むことだったと言われています。 不安な状況の中、それだけが唯一の希望だったと考えられます。
そして、戦争に勝利するその日まで、皇国臣民としてのプライドを捨てずに耐え忍ぶことが正しい生活とされました。

邦字新聞は既に廃刊になっており、ポルトガル語の新聞を読める者は一部のインテリ層のみだったため、 多くの移民たちにとって、日本から流れてくる短波放送、ラジオ・トウキョウが唯一の情報源となりました。
しかしラジオを持っている者は限られており、なおかつ電波状況が悪くかろうじて聞き取れる程度のものでしかなく、 人々は途切れがちなラジオ放送を推測で補いながら聴いていたそうです。
得られた貴重な本国の情報は、人から人へ口伝いに伝えられていき、その過程で、情報には多くの希望的観測が挟み込まれいきました。
ラジオは連日、大本営発表による日本の連勝を伝えていました。 そのような状況の中、1945年8月、ラジオから玉音放送が流れることになります。


■ 勝ち組、負け組の誕生と対立

途切れがちな玉音放送が流れ、だれもがいったんは敗戦の報に呆然とした、と言われています。 しかし、すぐに日本敗戦のニュースは連合国側の流したデマだという情報が飛び交いました。 日本の敗戦は、日本の勝利だけを希望にしていた人々にはとうてい受け入れがたいものでした。 多くの人々はラジオを唯一の情報源にしており、そのラジオはこれまで日本有利のニュースばかり流し続けてきた。
さらに、日本本国とは違い、ブラジル移民の人々は戦時下の空襲も食糧難も誰も目にしていなかった。
日本敗戦のニュースがデマだと考えることは、決して不自然なことではなかったのだと思います。 日本敗戦がデマであるとの情報は、やがて日本勝利の情報へと変わっていきます。
当時、ブラジルにいた日本人移民の数は約25万人とされていますが、 その約8割の人々が、敗戦のニュースを信じなかった "勝ち組"  の人々であったと言われています。 日本の敗戦を受け入れた人の多くは、ポルトガル語ができ、世界情勢に明るいごく一部の人たちだけでした。
彼らの多くは日本人社会の成功者たちであり、都市部に住み、ブラジル社会にある程度溶け込んでいた人々でもありました。
彼らははすぐに敗戦認識運動を開始しますが、各地で猛烈な反発に会うことになりました。 日本の勝利を信じる勝ち組の人々の多くは、日本人移民の大多数を占める奥地の農民でした。 彼らにとって日本の敗戦を告げられることは、長年信じ続けてきた希望そのものを踏みにじる行為だったのかもしれません。
戦争中、彼らの置かれた不安な状況を考えると、その希望は簡単に侵せるものではなかったのだと思います。
負け組の人々の言葉は、勝ち組の人々のプライドを根底から傷つけるものだった、と多くの勝ち組の人々が後に証言しています。
元々、口伝えで不正確な情報が伝達されていた環境の中で、情報は増々錯綜し、両者は対立していきました。
かくして日本の勝利を信じる「勝ち組」、敗戦を認識する「負け組」の対立が始まったのです。
各地の日本人コロニーに、勝ち組の組織が誕生し、その元締め的な組織として「臣道連盟」の影響力が大きくなっていきました。
勝ち組の人々は、敗戦の情報によって揺さぶれた自分たちの精神的支柱として、 天皇崇拝や皇国臣民としての自覚を促す組織を作り、その運動に走っていきます。
勝ち組、負け組双方は、それぞれの主張を広める運動を勢力的に行いましたが、それによって対立は更に深まっていきます。
9月には唯一の情報源だったトウキョウ・ラジオはGHQの命令によって放送を中止され、 情報源を失った日本人社会には様々なデマニュースが流れることになりました。 サンパウロに日本から戦勝使節団の船がやって来る、そんなニュースが流れブラジル各地から日本人が詰め掛け、 サンパウロの港が日本人で埋めつくされる、という事件もおこりました。
また、既に紙くずになった旧日本円紙幣や日本軍軍票を勝ち組の人に売りつけるという詐欺も横行しました。 この円売り詐欺には負け組の人々が関わっていたともされ、後に勝ち組、負け組の間に遺恨を残すことにもなりました。

遂には1946年3月、勝ち組の過激分子によって負け組の指導者を狙ったテロが起こります。 勝ち組過激分子による負け組へのテロが頻発し、23人の負け組の人々が殺害されたと言われています。 そして各地で勝ち組の逮捕が始まり、2000人以上の勝ち組の人々が逮捕されたと言われています。 逮捕された人々の中には、勝ち組というだけでテロとは無関係の者や、拷問を受けた者も少なくなかったそうです。
勝ち組の逮捕には負け組が協力したとされ、この事で勝ち組の、負け組に対する怨恨が残ることとなりました。 勝ち組と負け組の抗争はブラジル社会全体に大きな波紋をよび、 一時は日本人に対するブラジルの国民感情は最悪となり、 ブラジルの憲法に日本人移民の受け入れ禁止条項が盛り込まれる寸前までいくことにもなりました。

やがて邦字新聞も再発行されるようになり、勝ち組の中には、"戦勝国" 日本に帰国してショックを受けて戻ってくる者も現れ始めます。 1960年代までには勝ち組、負け組の問題は沈静化し、多くの勝ち組の人々は、敗戦を受け入れていきました。
しかし、勝ち組によって殺された負け組の人々の家族、不当に逮捕された勝ち組の人々とその家族、 双方の恨みは癒されることなく、深い溝としてブラジル日本人社会に残ることになったといわれています。 その後長らく勝ち組、負け組の問題はタブーとされ、ブラジル人日系社会の歴史の中で語られる際は、 負け組からの視点によるものが多かった為、勝ち組そのものが狂信者集団だったというイメージが広まり、 その事も遺恨を残す原因となったそうです。
勝ち組、負け組双方の視点による歴史は語られることなく、 その真相が未だ明らかになったいない点も多いため、 終戦からの10年間はブラジル日系移民史の中で長らく空白の10年となっていました。 現在、当時の移民の人々の多くが高齢化していることを受け、証言の掘り起こしがブラジル邦字新聞各社の努力で進められています。

戦勝国である日本に帰り錦を飾る、戦時中の苦しい状況の中で抱いてきたその夢を諦めざるを得なかった 日本人移民の人々の多くはやがて立ち直り、ブラジル永住を決意するようになります。 彼らは子供たちがブラジル社会の中で安定した地位を得られるよう、教育に力をいれていきました。 彼らの子弟教育の結果、日本人移民子弟の多くが社会的に成功し、 戦後のブラジル日系人社会の繁栄の基礎になったと言われています。

当時、勝ち組の人々が日本の敗戦を信じなかった、信じようとしなかった事は、 その背景を考えると、決して不自然な事ではなく、なるべくしてなったと感じてしまいます。 戦争を知らず、それこそ溢れんばかりの情報の中で生きている私たちにとって、 戦時下の日本人移民たちがおかれた心細さには想像を絶するものがあります。 勝ち組、負け組の問題には、情報というものの恐ろしさを感じ一方、不安な状況の下、 信じていた希望を失っても再び立ち直り、今日の日系人社会の繁栄の基礎を築いた人々の力強さなど、 今なお多くの学ぶべき点があるのではないでしょうか。



text by KESO



reference: ニッケイ新聞 http://www.nikkeyshimbun.com.br
                国会図書館 ブラジル移民の100年  http://www.ndl.go.jp/brasil/

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