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    2009.04.30
  • posted by kenshin.

孤高の天才『 南方 熊楠(ミナカタ クマグス) 』








「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」
渡米前にこんな言葉を残したのは、型破りの天才博物学者、南方熊楠その人である。
熊楠は1867年、和歌山市に金物商の次男として産まれた。
子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だったという彼は、常軌を逸した読書家でもあり、蔵書の豊富な家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていたのだとか。
また、何日も家に帰らず山中で昆虫や植物を採集することがあったが、その際ふんどし一丁で(多汗症の為)山をうろつく姿から「てんぎゃん(天狗)」というあだ名で呼ばれていた。
大学予備門(現・東京大学)の試験に合格するも(同窓生には、夏目漱石、正岡子規らがいた)、学業そっちのけで菌類の標本採取や図書館通いに明け暮れた結果、中間試験で落第、早々に予備門を中退した。サンフランシスコ行きの商船「シティ・オブ・ペキン」号に乗り込んだのは、その年の暮れのことだった。 とにかく奇行が多かったことで知られており、更に酒豪だった彼のその後の流転ぶりは、容易に想像できる。 サンフランシスコからミシガン、シカゴからフロリダへ。更にキューバへ渡った熊楠は、新種の地衣植物を発見し「クマグス」の名を世界の学会に知らしめるが、相変わらず困窮と流転の人生からは抜け出せない。 イタリアのサーカス団の巡業について南米を放浪し、1892年になって、やっと念願のロンドンへ渡った。
ケンジントン・ガーデンの外れの馬小屋の上階で暮らし、派手な法衣を身にまとい、袈裟がけ姿で周りを唖然とさせた無名の東洋人「ミナカタ」が書いた天文学の論文が「Nature(ネイチャー)」誌に掲載されたのは、ロンドン移住から5ヶ月後の事であった。また、語学が堪能だった彼は、英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語に迄及ぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。
ちなみに、「世界の碩学(せきがく)」としてネイチャー誌に紹介された男でもある熊楠が、同誌に発表・掲載された論文総数51本は、日本人として現在まで抜かれていない最高記録だ。
一躍注目を集めた熊楠は、大英博物館への出入りを許されると、水を得た魚のように次々と論文を専門誌に寄稿。驚異的な博識を生かして、当時一流と言われた欧米の学者たちの誤りを次々と指摘、大激論を交わしたという。
中国革命の闘士・孫文や真言宗僧侶・土宜法龍らとの交流から、さまざまな思想を吸収したのもこの時期だった。
しかし、その活躍をよく思わない白人男の執拗な嫌がらせに耐えかね、誇り高き熊楠は暴力事件を起こしてしまう。その後大英博物館から出入禁止の処分を受けた。結果的には、この事件が帰国のきっかけとなってしまった様だ。
海外での華々しい活躍にもかかわらず、何の学位も持たずボロ服をまとって帰国した熊楠に対する故郷の人達の目は、想像以上に厳しいものだった。追われる様に勝浦に住まった彼だったが、この熊野山塊の原生林こそ、彼が求めていた生物・植物の宝庫だったのだ。
採集、調査の日々、勝浦から田辺に移った後も何かに取り憑かれたように粘菌をはじめとした研究に没頭。
植物学、生物学、民俗学、宗教学など、数多くの分野でいくつもの英論文を完成させている。
これらの分野においては、近代日本の先駆者的存在で、また代表的な研究者でもあった。
また民俗学者の柳田國男をはじめ、その後多くの国内の学者達に影響を与えた。
更に研究以外で特筆すべきは、明治末期に政府によって推進された「神社合祀(ごうし)」に対する反対運動である。熊野三山に残る神々の森を伐採し、文化をも破壊する合祀の動きに対し「自然の破壊は、人間の破壊につながる」と徹底反論。
現在と違い「エコロジー」などという言葉も概念も無く、そんな価値観を日本人の誰ひとりとして知らなかった時代に、熊楠は森が荒廃し生態系が乱れること、そして人間と土地とをつなぐ信仰・文化の断絶について警告し、訴えた。
ついには役人たちを相手に乱闘騒ぎを起こし、18日間の拘留に処されている。
南方熊楠は、その生前を通じて、国内では業績に見合った評価とその恩恵を受けることがなかった。
その原因の一つは、彼が一貫して学閥や学会のしがらみに縛られた日本のアカデミズムの中心から一定の距離を置いていたことにある、と考えられる。
また、エキセントリックな奇行ばかりが目立ち、本来の学問に対する彼の真摯な姿勢はあまり評価されなかった様だ。
熊楠の後半生はというと、田辺の地から殆ど出ず、穏花植物の研究成果の殆どを、学会はおろ専門誌にも発表していない。
昭和16年に亡くなるまで、ひたすら孤独に顕微鏡を覗き、キノコの写生を続けた彼の残した大量の標本類は、いまだに整理と研究が続けられている。
無限の好奇心を持ち、植物と動物の境界に生きる粘菌の宇宙を見つめ、思想し続けた無冠の巨人、ミナカタクマグス。 今やその個性的な生き様は、没後80年経った現在も多くの人々を惹き付けてやまない。
『雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ』
昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌である。

Text by wk

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