第二次世界大戦が始まるずっと以前、明治時代から昭和の初期の話である。日本国内ではかまどで煮炊きをし、ちゃぶ台、畳の生活、まだまだ着物を着て生活している人が一般的な時代、
日本のある寒村でロッジ風の洋館が建ち並び、その村民はテーブルでパンとバターを食しコーヒーを沸かし、レコードを聴き、外出時はコートに帽子、ベットで眠るという生活を行っていた漁村があった。この村で一番売れるものは「パンとコーヒー」であり、村外の人々はこの村を『アメリカ村』と呼んだ。
和歌山県美浜町三尾地区(旧三尾村)にその「アメリカ村」は存在した。 漁村である三尾村は山が迫り耕地の乏しい地理に位置し、江戸末期から明治初期にかけて漁場争いに敗れるなどし、村民は日々食うにも困る生活を強いられていた。三尾村出身、工野儀兵衛はイギリス汽船 アビシニア号の船員だった従兄弟からカナダのバンクーバーの郊外スティーブストンには農業、漁業等将来性があると聞き、父へ子供の養育を頼みカナダで事業を興そうと一念発起し1888年(明治22年)渡航を決意しカナダへ渡ります。 その渡航先バンクーバー郊外スティーブストン、フレザー河で工野儀兵衛は産卵を迎えた鮭の大群を目にします。「フレザー河にサケが湧く」と三尾村に報告し、それを受けて、明治23年には弟の千代吉ら親戚を中心とする村民が、カナダへ渡航してきます、その翌年には三尾村の人々を呼び寄せます。元々手先が器用であり勤勉、そして漁師として優秀だった三尾村の漁師達はバンクーバーの港で非常に重宝がられます。1897年(明治30年)には移民が3000人を超え三尾村の出稼ぎ移民は漁業、製材、伐木、鉄道、鉱山、農業に従事します。カナダでの仕事は過酷ではあったが三尾の厳しい自然環境の元での漁業に比べると遥かにいい実入りとましな労働条件だったと言います。このように三尾村の人々はカナダの移民として成功を収めていきます。移民達は郷里へ送金を行い、三尾村は富める村となり出稼ぎから戻った者、引退し帰国した者、移民の子孫で自分のルーツに戻る者は三尾村にカナダでの文化や生活様式を持ち帰り日常で英語を操り洋式の生活を営みます。いつの頃からか三尾村を人々は「アメリカ村」と呼ぶ様になりました。
第二次世界大戦中は敵性外国人として財産を没収され日本への帰国か強制収容所の生活を強いられることになり約400人あまりが三尾村に引き返してきましたが1960年頃にはほぼ全ての引揚者がカナダに帰国していきます、その後、三尾村はカナダで働き終えた移民達の隠居地となっていきました。
1973年にNHKが制作したドキュメントフィルムで三尾村(現 美浜町)についての映像資料を見てみると、そこには当時80歳(1973年の時点)の漁師のおじいさんが英語で日常を生活し、村のおばあさんはこの村で4つある雑貨屋のうちのひとつで「カフェとブレッド」と注文しコーヒーとパンを買っていました。驚く事に節分の豆を数えるのに「one,two,three,,,,,,」と数えてるの映像を見ると本当にここは日本なのか?(しかも1973年で、、、)とかなり衝撃をうけます。かなり時がたち世代が入れ替わった現在、そのような姿は旧 三尾村(現 美浜町)には見受けられませんが当時の資料が残るアメリカ村資料館で当時の生活が伺い知ることができます。
先人達の勇気ある行動と想像を超えるような移民というアイデアで当時の苦しい環境から脱却していく姿に我々はまだまだ先人達の生き方からこれからの未来に生きるヒントを得ることができるのではないだろうか?いつの時代も勇気ある行動と想像を超えるようなアイデアが人々を救っていくのではと感じざる得ないのです。
text by keso