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  • Posted on
    2008.12.20
  • posted by kenshin.

肋骨レコードの思い出

『 営業時間が終わり、店を閉める。それからが本当の仕事の始まりだった。
  真夜中、時には朝まで、スイングミュージック、タンゴ、フォックストロット・・・
  そういった音楽のコピーレコードをとにかく作りまくった。
  殆どのレコードには、どこかの誰かさんの骨が写っていたもんだよ・・・』
 ( ボリス・タイギン・イワノヴァヴィッチ / 「лЕгЕНдА РУССКОГО ШАНСОНА」 HPより)


第二次世界大戦後のソビエト連邦。
音楽の自由が厳しく規制される中、都市部を中心に、ある奇妙なレコードが広まります。
当局の目を盗み、禁じられた音楽を人々に届け続けたそれらのレコードを、人々は『肋骨レコード』と呼びました。

■    音楽への規制
アメリカではスウィングジャズが確立しつつあった1930年代から、
ソ連は文化的鎖国とも言える外交政策をとっていました。
多くのソ連の若者たちにとって、海外の音楽事情を知る機会は殆どなかったと言えます。
しかし、第二次世界大戦に参戦したソ連兵たちは、戦場となったヨーロッパで西側音楽と出会います。
タンゴ、シャンソン、スウィングジャズ・・・そんな音楽に魅了された多くのソ連兵が、
終戦と共に外国のレコードを本国にこっそりと持ち帰ってきました。
これをきっかけにして、ソ連では若者たちを中心に西側音楽への憧れが強くなっていったと言われています。

しかし終戦後、スターリン体制による厳しい思想統制の下で、音楽は政府によってますます厳重に管理されていきます。
外国の流行歌やジャズ、そして亡命した音楽家の楽曲さえも"社会主義にとって非建設的である" とみなされ、
レコードの製造や販売は勿論、個人的に演奏することも聴くことも禁止されました。
当時、ソビエトの街に流れる音楽は政府が認めた労働歌や民族音楽ばかりだったと言います。

■    肋骨レコードの誕生
そんな中、密輸された西側のレコードを元に、海賊版のコピーレコードを作る者が現れ始めました。
このレコードはカッティングマシーンで直接レコード盤に溝を刻んで作られていましたが、
当時、生のレコード盤は簡単には手に入りませんでした。
そこで、レコード盤の代用品として考えられたのが、丸く切ったレントゲン写真でした。
使用済みのレントゲン写真なら、病院から安く大量に入手できる・・・
かくして、見知らぬ誰かさんの骨がプリントされた、ご禁制の西側音楽の海賊版レコード、
通称『肋骨レコード』が誕生したのでした。
ところで、肋骨レコードの生産に使用されたカッティングマシーンの多くは、
元々はスターリンの演説のレコードを作る為に政府が開発した物だったと言うから、皮肉なものです。

肋骨レコードは、西側音楽に飢えたソビエトの人々に大いに歓迎され、
公園や街角で、コートの袖から袖へ、こっそりと渡すようなカタチで販売されたと言います。
レコードを密輸する者、肋骨レコードを作る者、売る者、そして買う人々、皆、もし当局に見つかれば、刑務所や収容所送りになる。
それでも、人々は肋骨レコードを求め、数百万枚が製造されたと言われています。

■ 地下レーベルの奮闘と肋骨レコードの終焉
当時、サンクトペテルブルグに住んでいたボリス・タイギン氏とルスラン・ボゴスロフスキー氏は、
仲間と共に肋骨レコードを制作する地下レーベルを運営していました。
1947~61年の間、彼らはカッティングマシーンを改良を続け、肋骨レコードの高音質化や
それまで不可能だった33回転の肋骨レコードの生産に成功していきました。
その間、彼らは何度も逮捕され、ボリス氏は5年間、ルスラン氏は6年間を強制収容所で過ごすことになります。
それでも、彼らは懲りずに肋骨レコードを作り続けました。
ルスラン氏に至っては、収容所内で新型のカッティングマシーンの開発案を練り続け、出所するとすぐに図面を引き始めたそうです。
彼ら地下レーベルの奮闘により、肋骨レコードの品質は良くなっていきました。

やがて、ソ連では1956年のフルシチョフによるスターリン批判を皮切りに、
西側音楽への取り締まりは徐々に緩やかになっていきました。
また、60年代になり、テープレコーダーの普及で西側音楽のコピーは遥かに容易になり、
最盛期には幾つもあった肋骨レコードの地下レーベルもやがて姿を消し、
肋骨レコードはその役割を静かに終えていきました。

ソ連が崩壊して、15年以上が経つ現在、私達は世界中の音楽をいとも簡単に聴くことができます。
そして、音楽の自由が規制された時代を象徴する、肋骨レコードの存在は、ロシア国内でも忘れさられつつあると言います。
しかし、音楽の自由が規制された時代、身の危険を冒してまで自分の望む音楽を聴こうとした人々が生み出した、
奇妙なレコードの思い出は、人間の持つ、音楽への情熱とその力を示す、大切な記憶そのものであるような気がします。


text : K.A

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