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  • Posted on
    2011.05.28
  • posted by kenshin.

4月 福島 あるジャーナリストの目線

4月、福島。

出張に向かうスーツ姿のサラリーマンに混じり、福島空港到着。
福島空港のある郡山市は地方都市そのもの。被災の爪痕もなかなか見てとれない。
とにかく避難所を見てみようと移動。
避難所に足を運ぶ車内で、「もう復興に向かっているのか」と感じた私。

打ちのめされた。

避難所では、ダンボールの上で生活する人たちがあふれ、通路まで人が生活している。
なかなか風呂に入れない状態なので、衛生状態は悪く。空気は淀みきっている。
一時間ぐらいいただけで、扁桃腺が腫れてきたのがわかった。
避難所の倉庫にはカップ麺やレトルトの食料が大量に積まれていたのは意外だった。

福島市内に入ると異様な光景が広がっていた。
普段と何も変わらないであろうその街の人、ほとんどがマスク姿だった。
放射線の影響を少しでも減らそうとしているのだろう。
やはり見えないということは不安だ。外を歩くだけでも気が疲れる。

福島市内でも避難所を何か所も回る。
避難されている方々に話を聞くが、やはり住んでいる場所や立場で意見は当然異なる。
沿岸部だけではなく福島県全体に東電は金を落としてきた。ただそれが直接の仕事や金ではなく、広く公共財として使われてきた側面もあり、 原発関係で働く人以外は個人レベルで恩恵が見えづらい。

「原発近くの街では東電が仕事をくれる。俺は原発から遠いから仕事も金もくれなかった。それでも避難所暮らしが続いている。俺は被害者だ」

「原発近くに住んでいて、実際、原発で働いていた人も多い。東電だけを批判できない。原発誘致に賛成もした。ただそれは過疎に歯止めをかけ、 街に息子や孫が残ってほしかったから」

「企業が売れる商品(電気)を作ろうとするのは当然。消費者が求めるのだから東電は商品(電気)を作る。結果、原発もこれだけ多くなった。

問題は東京電力ではなく、電気を求める消費者、日本人全体の問題ではないか。」

ある避難所の外で、一人、煙草を吹かす老人に声をかけた。
自分が仕事に出ていたら津波が来たと。家にいた妻や娘は埋まったままだと。ひとりぼっちになったと。
そう私に告げるとすぐに老人は立ち去った。
言葉が出ない。何と言えばよかったのだろうか。
あの老人の寂しそうな眼、脳裏に焼き付いている。

津波の被害を受けた南相馬市の沿岸部に入る。
どう表現すれば良いのかわからないが、被災地の臭い。埃やヘドロや下水が入り混じった独特の臭いが立ち込めていた。
家の基礎部分だけが残り、おそらくそこに家があったであろうことだけがわかった。テレビで見た光景が目の前に広がる。
がれきの山には家族の写真や、おもちゃが転がり、そこに生活があったことを伝えていた。

毎日、被災地と避難所を行き来し、余震にも慣れてきた。
揺れがあるたびに、ああ「3」だな。これは「4弱」だなとテレビの速報を見ずとも震度がわかるようになってきた頃。
空いていたホテルの10階の部屋でそろそろ休もうかとベッドに入った。
仙台で震度6強。
福島も揺れる。揺れに揺れた。
ホテルの棚にある茶碗やらなにやらが机から次々に落ち、壁にひびが入った。
正直、死んだなと思った。恐ろしかった。

福島で10日間過ごし、帰路の飛行機。
ほっとした気持ちと、自分だけ帰っていいのだろうか、被災者への申し訳ない気持ち。

被災地以外は一時の混乱から日常に戻りつつある日本。日本人全体が被災地に目を向けなくなることが怖い。
忘れてははいけないということを自身の戒めとして結びとしたい。



text by k.u






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