ゴリラは別名を「大猩猩(オオショウジョウ)」と言い、サル目で ヒト科に分類される類人猿。アフリカ大陸の赤道直下で生活しており、生息域は東西に2分される。西側の生息域であるコンゴ、ガボン、カメルーン、中央アフリカ、ギニア、ナイジェリアにはニシローランドゴリラが...。東側の生息域であるコンゴ東部、ウガンダ、ルワンダには、ヒガシローランドゴリラとマウンテンゴリラが生息している。
これらの国々に共通しているのが、独立後約半世紀の間に、経済の破綻や政治的混乱で疲弊しきってしまったことだ。
近年ゴリラの生息する熱帯雨林は、広域に伐採され石油や金、ダイヤモンドなどの地下資源が手当たりしだいに採掘されており、とても野生動物が豊かに暮らせる場所ではなくなってしまった。伐採道路を利用して野生動物の肉が食用に都市へと搬出され、密猟も激増した。
これら生息国政府は保護区や国立公園を増やしたが、各地に勃発しはじめた内戦の為、法の効力も薄れ、人々がこぞって森に入り込んでは資源を乱獲するようになってしまったのである。
当然ゴリラの生息数も、各地で激減しているとの懸念がある。
アフリカから遠い国に暮らしている我々が、なぜゴリラの危機に関心を向けなければならないのか...。
1つには、ゴリラが人間にとって「進化の隣人」であるからだ。ゴリラはチンパンジーと並んで人間に最も近縁な生物である。彼らと人間は、体の設計図である遺伝情報の約98%が同じ。約900万年前にゴリラとの共通祖先と分かれ、人間はさまざまな種類の祖先を産み出してきたが、現在はたった1種類の人類しか生き残っていない。
化石からだけでは祖先達がどういう暮らしをしていたのか、ほんの僅かな手掛かりしか得られないので、今ゴリラを失ってしまったら、我々人間は過去の時代にどんな心と社会をもっていたのかを知ることができなくなってしまうからだ。
発見以来長年に渡って凶暴な動物であると誤解されてきたが、近年になって研究が進み、実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになってきた。海外の動物園のゴリラの檻に、誤って小さな子供が落ちた際、泣き叫ぶ子供の側で雌のゴリラが雄ゴリラを近づけないように、その子供を見守る姿がテレビで紹介されたこともある。実際、自分から攻撃を仕掛けることはほとんど無いと言って良い。あるコミュニティのボスが、人間の姿を見て興奮した群れの他の雄ゴリラを諌める、という行動も確認されており、本来争いを好まない種であることがわかる。
また、群れの間で会話や餌を食べる時などには鼻歌を歌うこともあるらしい。
ともあれゴリラは、19世紀の中盤にアフリカで発見されて以来、その巨体と迫力に満ちたディスプレイによって恐れられてきたことは間違いない。
1930年代にハリウッドで制作された「キングコング」は、当然ながらゴリラがモデルになっている。それは、時に2本足で立ち上がり、両手で胸をたたく「ドラミング」という行動のせいだった。
アフリカのジャングルでゴリラのドラミングに遭遇した探検家たちは、皆その迫力に震えあがり、これを暴力の象徴と見なしたのである。同じ様に人間の祖先もまた凶暴な性格をもち、闘争に明け暮れる生活を送っていたが、それを法と武力で抑え、人間へ至る道を辿ったと当時の人々は考えた様だ。
しかし、野生のゴリラの生活をつぶさに観察できるようになると、ドラミングは決して闘いの表明でないことがわかってきた。
これは向かい合って交互に胸をたたき、互いに面子(メンツ)を保って引き分ける平和な解決策なのである。おとなのオスだけではない。メスも子供も、自己主張をするときや、好奇心、興奮を感じたときに胸をたたく。
ドラミングは、人間の会話のように少し距離を置いて行うコミニュケーションの手段だったのである。
ゴリラは、人間より大きな体と力を闘争ではなく、平和な暮らしに用いていたのである。もしゴリラの野生生活が明らかにならなかったら、彼らをずっと誤解し続けていただろう。
ゴリラ同士のケンカでは、近くにいる仲間が割って入り、それを仲裁する。両者にかわるがわる顔を近づけて静めるのである。たとえそれがケンカの当事者たちより体の小さなゴリラでも、ひるまずに割って入るし、当事者たちも仲裁を受け入れる。
ケンカをしているゴリラたちは、自分が傷つくまで争いたくない。でも負けたくはない。勝敗をつけずに互いが認め合うには、他の仲間の介入と仲裁が必要なのである。ひょっとしたらゴリラたちは、人間よりも平和の大切さや争いの収め方を良く知っているのではないだろうか。
ゴリラに関心を向けるもう1つの理由は、彼らから遠く離れている私たちの暮らしそのものがゴリラを追い詰めているからである。我々が日常用いる携帯電話やパソコンに使われている「レアメタル(希少金属)」は、ゴリラの生息地から採掘される。食い詰めた貧しい人々が、僅かな現金収入を得るために森へ採掘に入り、当座の食料としてゴリラを狩猟しているのだ。
パソコンや携帯電話と言えば、現代生活に欠かす事の出来ない必須アイテムである。これら文明の利器によって支えられている生活そのものが、平和を好む文化的なゴリラとその生息地の荒廃を前提としているのであれば、これ程の矛盾もあるまい。都市に住む人間の暮らしとゴリラの悲劇は無関係ではない。それを良く知って、もう一度自分の生き方を見直すことをゴリラは教えてくれるのである。
[Reference]
wikipedia
『ゴリラ』山極寿一(やまぎわ じゅいち)著 / 国際霊長類学会会長
text by wk