人は、視覚によって自分の行動のおよそ80%を判断していると言われる。視力を失わない限り意識さえしない日常生活の殆どを「見える」ことに頼っているのだ。しかし、音や香りなどの感覚もそうだが、眼に見える色や形には、ただ客観的にそれを探求しようとする姿勢だけでは捉えきれないものがある。
約200年前、2人の天才が光や色彩と、それを眼が認識する仕組みについての論争を巻き起こした。
まずニュートンによれば「光は屈折率の違いによって七つの色光に分解され、これらの色光が人間の感覚中枢の中で色彩(色や形)として感覚される」としている。彼の言葉どおり色彩が数量的(スペクトル)・客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、ただただ数学的に光を分析してゆけば色彩のことが分かる、ということになる。ニュートンの光学は、あくまで光を研究することであり、色彩を屈折率という数量的性質に還元して理解することに尽きる。
これに対して、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象を持ち出して反論したのがゲーテである。そもそもゲーテの色彩論が、ニュートンの光学と根本的に異なる点は、色の生成に光と闇を持ち出しているという点だ。ゲーテにとって闇とは、光と共に色彩現象の両極をになう重要な要素でもあったのだ。
春風に散る桜の花びら、その切なさや空気感...
灼熱の太陽に照らされた健康的な肌の色、汗の臭い、海の香り...
紅葉した木々の葉の隙間から射込む木漏れ日や、空との距離感...
吐く息も凍りそうに張りつめた大気、深々と降る雪、モノトーンな街並み...
こんな情景を思い浮かべてみると、やはり色や景色が光のみで表現されたものでは無いと感じる。そこには、目立たなくともしっかりと闇の存在を感じ取ることができるはずだし、それを感じている「人(眼)」の存在も欠くことはできない。
例えば「紫(パープル)には、皇帝や国王が着用する緋の衣という意味があり、高貴な色とされる。人間に体験される色彩を探求していくと、色彩が人の精神にまで影響していることが解る。赤は最も力強い色だが、その対極に位置する緑はどうかというと、地に根を下ろした安定した色だと言える。また、光に近い色である黄色、そしてそれに近い橙(オレンジ)などは、プラスの作用、すなわち快活で生気ある、何かを希求するような気分をもたらす。闇に近い色である青、そしてそれに近い紫などはマイナスの作用、すなわち不安で弱々しい、何かを憧憬するような気分をもたらす。人間の精神は不思議と色が示す秩序の影響を受けているように見えるのである」とゲーテは語る...。
この様に、色彩とは(ニュートン的な)数量化された自然ではなく、人が日々感じている、あるがままの自然そのものを探求しようとする姿勢から見いだされたものだとは言えまいか...。「光と闇」という対立するものが呼び求め合い、色や形として「見える」というこの一連の運動は、眼がひとつの色彩の状態に止まらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出しているということであり、単に静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだしていることに他ならない。それは能動であり、生きるということでもある。生きるとは活発に運動し、新たなものを創造することであり、究極には色を有機的・生命的に捉えた結果だとも言える。
色彩とは、単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と自然たる光の共同作業によって生成するものなのである。雨と晴れの競演によってつくられる虹や、太陽風と地球磁場によって産み出される極景「オーロラ」も光と闇がつくり出す芸術である。
現在では、2人の言い分はそれぞれに正しかったことが証明されている。そしてそれぞれの分野に多大な功績をもたらした。日常の無意識に働きかける色彩というマジックを、意識的に解明しようとした2人の天才の意図は、これで十分に果たされたわけだが、結局のところ大切なのは「どんな心でものを観ているか」ということなのではないだろうか?200年も前に決着したこの問題を通して、現代に生きる我々人類の資質が問われている様に思えてならない。
[Reference]
「Opticks(光学)」/Sir Isaac Newton(アイザック・ニュートン卿)著
「Zur Farbenlehre(色彩論)」/Johann Wolfgang von Goethe(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)著
text by wk