1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。
若くして母を亡くし、家業であった鍛冶屋の廃業を経験するなど、苦労の多い青春時代を送った。
元々絵が好きだった棟方は、18歳の時友人宅で文芸誌の挿し絵に使われていたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そしてそのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。
「ワだば(私は)、ゴッホになる!」
この誓い通り彼は、油絵の道にのめり込んでいくこととなるが、簡単には世間に認められず、3年、4年と時間だけが経っていった。彼は、この頃の気持を自伝にこう記している「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。
そうして気付いた。
「そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくては涌いてこない、溢れてこない命が確実に存在するはずだ!」
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』...これより後、この言葉が棟方の座右の銘となった。
30代で開花した才能は、40~50代で実を結んでいく。この頃の作品は、海外で高い評価を得ていた(スイス・ルガノ国際版画展・優秀賞、サンパウロ・ビエンナーレ・版画部門最高賞など)。
そして53歳(1956年)のとき、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。
「釈迦十大弟子」などの、仏をテーマにした作品が有名だが、詩(テキスト)と画(え)の合体の妙も、棟方志功らしい魅力の一つと言える。木板画というには、あまりにも柔らかでふくよかなラインに眼を奪われる。その色使いも、まるでルノワールを彷彿とさせるものがある。
60歳を目前に、敬愛するゴッホやベートーヴェンを讃える言葉を刻み込んだ自画像を制作。この頃「朝日文化賞」や「毎日芸術大賞」を受賞するなど、ようやく国内の美術界でも正当な評価を受け始めた。
1975年72歳で永眠。「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。
ちなみに、亡くなる前年には墓石も自分でデザインしており、原画どおりに作られたその墓は、ゴッホのそれと全く同じサイズ、デザインだという。
TEXT BY WK