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    2009.05.24
  • posted by kenshin.

田名網 敬一(Keiichi Tanaami)




もしかすると、誰もが一度は目にした事のある絵。 彼は、極端に派手な色彩や形態をなした連続物を、空間いっぱいにひっくり返したようなサイケデリックな作品を創作することで有名な、近代日本におけるモダンポップアートの第一人者である。




03'秋冬コレクションで「MARY QUANT LONDON」とコラボレーションした作品は特に有名。翌年には、宇川直宏と「SUPER CAR」のアートワークを担当し、若い世代からも大きな反響を得た。また、ニューヨークTransplant Galleryでペインティングによる個展、ノルウェー国際短編映画祭で「田名網敬一の映画」と「グラフィック100展」を同時開催するなど、勢力的に創作活動を続けている現役のアーティストだ。



1936年、東京・京橋の服地問屋の長男として生まれ、少年時代は「漫画少年」の定連投稿者だったという。 武蔵野美術大学デザイン科卒業後、博報堂の制作部に勤めたが、1年で退社。その後1950年代後半よりアーティスト活動を開始。60年代から70年代にかけて、日本における反芸術運動の中心的存在であった「ネオダダジャパン」と行動を共にしている。ロバート・ラウシェンバーグやミシェル・タピエらと親交を深め、あるいはアンディ・ウォーホルとも仕事を共にするなど、戦後日本の前衛芸術の創成期において、常にその中心にいたアーティストの一人だ。 ベトナム戦争、日米安全保障条約の改定、中華人民共和国文化大革命、オイルショックといった事件に象徴される激動の時代を反映して花開いた、カウンター・カルチャーの旗手として、田名網は当時から絶大な人気を誇った。 そして1975年、日本版「PLAYBOY」誌の初代アートディレクターに就任すると、その才能をいかんなく発揮。彼のアート・ディレクションには、ポップでありながら、斬新で多角的な攻撃的エロティシズム特質が大きく反映されており、あたかもその時代とスウィングしているかの様だ。 その後もイラスト、アニメーション、グラフィックデザイン、ポスターや商業デザインンなど幅広く活躍し、自らを"イメージ・ディレクター"と名乗った。
80年代に入り、胸膜炎で3ヶ月の入院生活を送るのだが、その時期、幻覚で〈松〉にうなされる。退院後、異形の松や鶴、象など、多くのアジア的な形象の引用を表現手法に採り入れ、記憶や夢の世界をペインティング、映像、版画で表した作品を発表している。1991年より京都造形芸術大学教授に就任。
田名網は、60年代という時代を振り返って、次のようなコメントを残している。 「ぼくの紆余曲折しながら歩んできた道程をふりかえると、60年代という特別な時代が遥か彼方でいまも鋭い光を放っているのがよくわかる。イラストレーションもアニメーションも実験映画もペインティングも版画も立体もそのすべてが60年代に生みおとされ成熟されたものといってもよい。」








text by WK

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