「the mother earth」
アメリカ カリフォルニア州のサンフランシスコ DEYOUNG美術館にひときわオーラを放つ日本画が飾られている
「THE MOTHER EARTH」と名付けられたその日本画は1912年の戦前にカリフォルニア州のヨセミテ国立公園で小圃千浦が描いた物である。
岡山県で生まれたチウラ•オバタは戦前からカリフォルニアに渡りヨセミテを日本画で描き続けた日本画家である。
14歳で家出し東京で邨田丹陵(むらた・たんりょう)の弟子となり、3年後若干17歳で日本美術院正会員になるが、1903年18歳で単身渡米する
渡米先のサンフランシスコでは日本移民の為の邦人紙等のイラスト等で口を糊していたが、1927年カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが、チウラの大きな転機となった。
チウラはヨセミテで制作に打ち込み、150枚ものスケッチを描いた。バークレーに戻り、ライダー教授により大学で日本画デモンストレーションの機会を与えられるが、多くの学生が押し寄せたため、チウラは大学の講義をもつようになる。
同年個展「ヨセミテ・シリーズ」を開催し、大きな評価を得るようになる。その後日本でも浮世絵版で有名な高見澤商店による木版画で「ヨセミテ・シリーズ」を出版している。
しかしながらオバタの生活は平穏ではなく1945年に日米が開戦すると適正外国人と見なされ強制収容所に送られる。
だが「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもとにミネ大久保、日比松三郎・久子夫妻などとともに「タンフォラン美術学校」を収容所内に創立し美術教育に尽力する。
終戦後はカリフォルニア大学バークレー校で名誉教授として迎え入れられ、生涯をカリフォルニアで送るが毎年、ヨセミテでのキャンプとスケッチ旅行は欠かさなかったという。
チウラの絵は水墨画と水彩画が融合された何とも爽やかな日本画であるが、その被写体はヨセミテと言う異国の地の大きなる大自然であり、その大自然に圧倒されながら夢中で描いた作品が何とも新鮮な味がある。
故郷を遠くはなれたヨセミテの地で創作の源となり生きる為の大いなる希望や光であったヨセミテの大自然の風景を彼の日本画を通して見ることができる。
参考資料
wikipedia
text by keso