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「デジタルの今」 〜融解する個の瞬間 〜
科学技術がもたらす恩恵はことごとく私たちの生活様式や文明、常識、精神などを根底から変えてきた。電気の発明により我々は夜も昼も関係なく人生を謳歌する事が出来る様になった。
それは生きている時間の体感が増えたと言う事である。
その頃から人々はまだ来ぬ明日「未来」が大きな関心事となっていった。
19世紀のこの時代に市民の最大のインパクトは社会主義者達による社会のプログラム化であり、社会の連続性を分断する事が目的であったのであったが理想主義や、ロマンティシズムに裏打ちされた過激な構造の改革はうまくいかず、冷静で実証的な社会の連続性を担保しつつ改良という方法に移行して行くことになる。
例えれば、農作物の生産量、エネルギー効率、人口増加の速度を始めとした計数的な未来予測は理論と技術、技法の発達により裏打ちされた現実的な未来予測であった。
こういった事により、まだ来ぬ明日「未来」が大きな関心事となり、市民一人一人に未来と言う感覚は自覚されて行く様になる、それは自分の人生のリミットを知る機会ともなり、そこから派生した人生観や哲学は限りの有る時間の中でロングタームに自分の人生や生活をいかに謳歌するか、より良いものにしていくかということなど考えるきっかけとなり、人々は時間と寄り添いながら生活していく様式となっていく。
小説家のアブハ•デウェザールは2012年のアメリカで発生したハリケーン サンディの体験をきっかけにショッキングな現在の事実を発見することになる。
停電で彼女は食事やシャワーや諸々のライフラインを確保する苦労のなかで、もう一つ重要なことがあったと述べている。
それは彼女が所有する携帯電話やノートパソコンや複数のガジェットを「充電すること」。
そのために、パン屋のベンチ下やお菓子屋の入り口下にコンセントを探しまわることとなり、そういった行動をとったのは彼女だけでは無く、被災して停電に見舞われた多くの人が「電気に飢えていた」そうです。
実際にそれは自然の力はどの科学技術にも勝ると言う事を体現している最中にもかかわらずそうした行動を突き動かす衝動の根源は、「デジタルの今、皆につながりたい」という抗い難い欲求だったとかたっています。
1990年代の後半から普及したインターネットの社会は我々の生活様式を一変する事となっているのは今、私たちが体現しているから説明は全く不要であろう。
しかしその恩恵の影にはその生活様式と共に私たちの生活様式や文明、常識、精神などを根底から変えてきている事も自覚しなければならない事に気づくべきだと彼女は語っています。
アブハ•デウェザールは私たちが人生に対して抱くより大きな感覚は私たちの寿命までの長い時間の弧とそれを構成するそれぞれの瞬間からの連続の二つの時間軸が有ると考えています瞬間は自己が確立する没入する経験すなわち直接経験の時間だと言っていますが、インターネットの発達により空間とともに時間が縮んでしまい自己が溶けていってしまっていると語っています。
それは何処にいようがスマートフォンからインドのニュースが表示され前の仕事、昔のディナーの予約、昔の友達、前の恋人、が今の友達や恋人などと全て平面に存在する
なぜならインターネットは過去を記録し、過去、現在、未来を平面化し何処にいても共に瞬間として共に有る「デジタルの今」と呼ぶ瞬間となっています
しかしながら「デジタルの今」は現在では無いとアブハ•デウェザールは語っているのは興味深く、なぜならば常に数秒先を行っていると言います。
常にツイッターは流行を察知し、時差を超えニュースが入ってくる自分の生活や瞬間、心理的な状態を反映する事無くほぼ同時に起こるいくつもの時間軸を生きることとなり、過去の思い出や体験は人の経験とすり替わり、「デジタルの今」と体感や現在はギャップが生じながらデジタル化されていない生身の体で溶けていく今と言う体感の瞬間を経験する自己とが解離していくなかで寿命までの長い時間の弧を過ごすことになるのかと懸念しているのです。
このギャップの例でたとえると インドにはトイレよりも 携帯電話を持っている人の方多いと言われています。
すでに世界の至る所であまりにも大きくなりつつある このインフラの欠如と科学技術の広がりの裂け目がどうにかして 橋渡しされなければいけないとも彼女は考えています
もちろん多くの物理的距離が解消されて生活は本当に快適になっていますがしかし、その距離が縮み過ぎることで、私たちの今が削られつつあると彼女は主張しているのです。
確かに、実生活の中に広告を始めとした情報が浴びせられる様に有り、気がつくと、スマートフォンをいじっていたり、ポケットに入ってないのにバイブレーションがなってるのではいかと錯覚したり、データは全てデジタル化してあるので、友人や家族の電話番号さえ記憶していないとかと言う様な心当たりが有ると思うのです、私たちはデジタルなメディアや生活様式にとらわれる時間は年々増加しています。
自分の体験と言う瞬間の個の部分が溶けていくと言うアブハ•デウェザールの提言が無ければそれすら気づく事無く人生の謳歌できるリミットを自分自身ではない何かに委ねすぎることになり、臨終の床で自分の走馬灯も人の記憶だったりするのかもしれないと考えるとちょっとゾッとします。
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